一
「随分遠いね。
と
「どこか
と顔も
「恐ろしい
「あんなに見えるんだから、
「あんなに見えるって、見えるのは
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに
細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に
「君はあの山を
「うむ、動かばこそと云ったような
「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の
「今日は
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも
「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか
「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」
「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」
「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」
「僕も知らんがね」
「それ見るがいい」
「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」
「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。
春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に
「おおい」と後れた男は立ち
「何だい」
「何だいじゃない。ここから登るんだ」
「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな
「君見たようにむやみに
「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」
「今大原女に
「出るとはどこへ出るのだい」
「
「叡山の上のどこへ出るだろう」
「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」
「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、
「歩行けないたって、仕方がない」
「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると
「何でも好いから、先へ行くが好い」
「あとから
「いいから行くが好い」
「尾いて来る気なら行くさ」
「おい、君、
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
振り廻した杖の先の尽くる、
「なるほど好い
「いつの
「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」
「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも
「ハハハハそれで君は
「おれの幾歳より、君は幾歳だ」
「僕は分かってるさ」
「僕だって分かってるさ」
「ハハハハやっぱり隠す
「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」
「だから、幾歳なんだよ」
「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。
「僕は二十七さ」と甲野君は
「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」
「だいぶ年を取ったものだね」
「
「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」
「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」
「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」
「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」
「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと
「この辺の女はみんな
「あれが
「なに
「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度
「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、
「なるほど、
「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は
「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」
「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」
「もう何遍落第したかね。三遍か」
「馬鹿を申せ」
「じゃ二遍か」
「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」
「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」
「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」
「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう
「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を
「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」
「うん」
「うんか、おやおや」
「
「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも
甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も
然宗近君は
「
「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」
「女は人を馬鹿にするもんだ」
と甲野さんは依然として
「そう泰然と尻を
「動けば吐く」
「
「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界
「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を
「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」
「君は
「君は愛嬌の定義を知ってるかい」
「何のかのと云って、
「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを
「それじゃ
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」
「いやに
「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。
宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、
あとは静である。静かなる事
考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また
「万里の道を見ず」
と小声に
「ただ万里の天を見る」
と第二の句を、同じく小声に歌った。
草山を登り詰めて、
右よりし左よりして、行く人を両手に
行く路の杉に
「ここだ、ここだ」
と宗近君が急に頭の上で
「
甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を
「また
と例の桜の

「なるほど」と甲野さんは
鏡を延べたとばかりでは

「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。
「なるほどだけか。君は何を見せてやっても
「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」
「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、
「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を
「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」
「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」
「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」
「まるで夢のようだ」
「何が」
「何がって、眼前の景色がさ」
「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって
「何を云ってるんだい」
「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に

「何でも向う側だ。京都を
「将門か。うん、気
を吐くより、「哲学者がそんなものを吐くものか」
「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで
「あの
「あの島か、いやに
「本当かい」
「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、
「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」
「人間万事夢のごとしか。やれやれ」
「ただ死と云う事だけが
「いやだぜ」
「死に突き当らなくっちゃ、人間の
「やまなくって好いから、突き当るのは
「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」
「誰が」
「
山を下りて
二
静かなる昼を、静かに
「墓の前に跪 ずいて云う。この手にて――この手にて君を埋 め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を掃 い、この手にて香 を焚 くべき折々の、長 しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、莫耶 も我らを割 き難きに、死こそ無惨 なれ。羅馬 の君は埃及 に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に埋 められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、憂 きわれに拒 める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、情 だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの辱 に、市 に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が仇 なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを永劫 に隠したまえ。」
女は顔を上げた。女はただ
頭「
「え?」とすぐ応じた男は、
「何ですか」と男は二の句を
女はまだ
「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って

男は「ええ」と申したぎりであった。
「この女は
女は
「行きはしませんよ。行きはしませんよ」
と縁もない女王を弁護したような事を云う。
「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく
「
小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って


「沙翁の
「どんな心持ちに?」
「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、
「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」
「なぜって、そう云う感じがするのです」
「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き
「え?」と小野さんは
ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、
「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、
「九寸五分の恋が紫なんですか」
「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」
「恋を
「恋が
「沙翁がそんな事を書いているんですか」
「
「紫が
「紫が
「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う
「そこでクレオパトラがどうしました」と
「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、
「全体追窮する人の年はいくつなんです」
「クレオパトラは三十ばかりでしょう」
「それじゃ私に似てだいぶ
女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき
美しき女の
「年を取ると
小野さんはまた
「そうですね。やっぱり人に
「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」
「あなたが――あなたに
「有りますよ」
女の声は静かなる
「
「
「
「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」
「小野さん」
「ええ」
「あなたは
「
「考えないと分らないんですか」
「いえ、なに――たしか甲野君と
「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど
「なに、そうでも有りません」
「本当よ」
「何か
「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」
「そんなに見えますか」
「まるで坊っちゃんのようですよ」
「
「可愛らしいんですよ」
女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の
「可愛らしいんですよ。ちょうど
「安珍は
許せと云わぬばかりに、今度は受け
「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。
「だって……」
「だって、何が
「
これを逃げ損ねの
「ホホホ私は清姫のように
男は黙っている。
「
時ならぬ春の
「
「何です」
呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は
花の

「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、
「母が帰って来たのです」と女は
「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を
「
「ええ、ちょっと買物に出掛けました」
「だいぶ御邪魔をしました」と立ち
「まあ
「しかし」と云いながら、
薄い煙りの、黒い
「まあ、御坐り遊ばせ」と
男は無言のまま再び
「近頃は女ばかりで
「甲野君はいつ
「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」
「
「いいえ」
「時候が好いから京都は面白いでしょう」
「あなたもいっしょに
「
「なぜ行らっしゃらなかったの」
「別に訳はないんです」
「だって、古い
「え?」
小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。
「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」
「それで御馴染なんですか」
「ええ」
「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」
「随分不人情ね」
「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的
「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。
「
「ええ」
「
「なぜです」
「でも何か御用が
「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」
「しかしあんまり教えないんだから」
「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」
「そうでしょうか」
「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」
「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」
「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。
「失礼ですがちょっと
藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。
小野さんは
金は色の純にして濃きものである。
「おやいらっしゃい」と
「藤尾が
御母さんの弁舌は
「花を墓に、墓に口を接吻 して、憂 きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、浴湯 をこそと召す。浴 みしたる後 は夕餉 をこそと召す。この時賤 しき厠卒 ありて小さき籃 に無花果 を盛りて参らす。女王の該撒 に送れる文 に云う。願わくは安図尼 と同じ墓にわれを埋 めたまえと。無花果 の繁れる青き葉陰にはナイルの泥 の
の舌 を冷やしたる毒蛇 を、そっと忍ばせたり。該撒 の使は走る。闥 を排して眼 を射れば――黄金 の寝台に、位高き装 を今日と凝 らして、女王の屍 は是非なく横 わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の頭 のあたりに、月黒き夜 の露をあつめて、千顆 の珠 を鋳たる冠 の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。埃及 の御代 しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を瞑 る」
埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、
「藤尾」と知らぬ
男はやっと
「藤尾」と御母さんは呼び直す。
女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ

を「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。
「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変
「大事にしていますわ」
「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」
「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」
「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を
「いえ、あなた、どうもわがまま
「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。
「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。
「兄の本を庭へ
「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と
「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。
「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、
「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」
「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の
「アハハハ快活な面白い人ですな」
「宗近と云えば、
「ここです」と藤尾は、軽く
右手を
奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、
「
「こうすると引き立ちますよ」と云って
「どうです」と藤尾が云う。
「なるほど
「全体どうしたんです」と小野さんは
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、
三

「京都という所は、いやに寒い所だな」と
甲野さんは
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの
「なるほど妙だね。
「分らんね」
「分からんでもいいや、それよりこの
「何と云う謎だい」
「それは知らんがね。意味が分からないものが
「意味が分からないものは謎にはならんじゃないか。意味があるから謎なんだ」
「ところが哲学者なんてものは意味がないものを謎だと思って、一生懸命に考えてるぜ。
「じゃこの筍も気違の
「ハハハハ。そのくらい
「世の中と筍といっしょになるものか」
「君、
「人を中学生だと思ってる」
「思っていなくっても、まあ聞いて見るんだ。知ってるなら云って見ろ」
「うるさいな、知ってるよ」
「だから云って御覧なさいよ。哲学者なんてものは、よくごまかすもので、何を聞いても知らないと白状の出来ない
「どっちが執念深いか分りゃしない」
「どっちでも、いいから、云って御覧」
「ゴージアン・ノットと云うのはアレキサンダー時代の話しさ」
「うん、知ってるね。それで」
「ゴージアスと云う百姓がジュピターの神へ車を
「おやおや、少し待った。そんな事があるのかい。それから」
「そんな事があるのかって、君、知らないのか」
「そこまでは知らなかった」
「何だ。自分こそ知らない癖に」
「ハハハハ学校で習った時は教師がそこまでは教えなかった。あの教師もそこまではきっと知らないに違ない」
「ところがその百姓が、車の
「なあるほど、それをゴージアン・ノットと云うんだね。そうか。その
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに
会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は
古い京をいやが上に

甲野さんは寝ながら日記を
「
と書いてしばらく考えている。
旅行案内を

「
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は


宗近君は

雨は一つである。冬は
「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に
琴の手は次第に繁くなる。
「おい、甲野さん、
と
「うん、さっきから拝聴している」と甲野さんは日記をぱたりと伏せた。
「寝ながら拝聴する法はないよ。ちょっと
「なに、ここで結構だ。構ってくれるな」と甲野さんは空気枕を傾けたまま起き上がる
「おい、どうも東山が
「そうか」
「おや、
「渉ってもいいよ」
「君、
「いやだよ」
「君、そうこうしているうちに加茂の
「落ちても
「落ちても差し支えなしだ? 晩に都踊が見られなくっても差し支えなしかな」
「なし、なし」と甲野さんは面倒臭くなったと見えて、寝返りを打って、例の
「そう落ちついていちゃ仕方がない。こっちで降参するよりほかに名案もなくなった」と宗近さんは、とうとう
「おい、おい」
「何だ、うるさい男だね」
「あの琴を聴いたろう」
「聴いたと云ったじゃないか」
「ありゃ、君、女だぜ」
「当り前さ」
「
「
「そう冷淡じゃ張り合がない。教えてくれなら、教えてくれと
「誰が云うものか」
「云わない? 云わなければこっちで云うばかりだ。ありゃ、
「座敷でも
「なに座敷はぴたりと締ってる」
「それじゃまた例の通り
「雅号にして本名なるものだね。僕はあの女を見たんだよ」
「どうして」
「そら
「何聴かなくってもいいさ。そんな事を聞くよりこの
「おおかた君の眼が横に着いているせいだろう」
「二枚の
「あんまり下手だから一本負けたつもりだろう」
「筍の
「食うと
「やっぱり謎か。君だって謎を
「ハハハハ。時々は釈いて見るね。時に僕がさっきから島田の謎を解いてやろうと云うのに、いっこう釈かせないのは哲学者にも似合わん不熱心な事だと思うがね」
「釈きたければ釈くさ。そうもったいぶったって、頭を下げるような哲学者じゃない」
「それじゃ、ひとまず安っぽく釈いてしまって、
「うん」
「僕が見たんだよ」
「そりゃ今聴いた」
「そうか。それじゃ別に話す事もない」
「なければ、いいさ」
「いや好くない。それじゃ話す。
「
「ああ別嬪だよ。藤尾さんよりわるいが
「そうかい」
「それっきりじゃ、
「そりゃ残念な事をした、僕も見ればよかった」
「ハハハハだから見せてやるから
「だって障子は締ってるんじゃないか」
「そのうち
「ハハハハ小野なら障子の開くまで待ってるかも知れない」
「そうだね。小野を連れて来て見せてやれば好かった」
「京都はああ云う人間が住むに好い所だ」
「うん全く小野的だ。大将、来いと云うのになんのかのと云って、とうとう来ない」
「春休みに勉強しようと云うんだろう」
「春休みに勉強が出来るものか」
「あんな風じゃいつだって勉強が出来やしない。一体文学者は軽いからいけない」
「少々耳が痛いね。こっちも余まり重くはない方だからね」
「いえ、単なる文学者と云うものは
「霞の
「君見たように
「ハハハハそれぞれ酔っ払ってるから妙だ」
甲野さんの黒い頭はこの時ようやく枕を離れた。
「なるほど酔っ払いに違ない」と枕元に
「たしかに酔っ払ってるようだ。君はまた珍らしく
「おれは、これで正気なんだからね」
「
「精神も正気だからさ」
「どてらを着て
「そうか、それじゃ
「君は感心に
「
「酔払っていてもそれなら大丈夫だ」
「なんて生意気を云う君はどうだ。酔払っていると知りながら、胡坐をかく事も跪坐る事も出来ない人間だろう」
「まあ立ん坊だね」と甲野さんは
毛筋ほどな細い管を通して、
甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その
春の旅は
「立ん坊か」と云ったまま宗近君は
「いつまでも立ん坊か」
と相手の顔は見ず、質問のように、
「立ん坊でも覚悟だけはちゃんとしている」と甲野さんはこの時始めて、腰を浮かして、相手の方に向き直る。
「叔父さんが生きてると好いがな」
「なに、
「そうさなあ」と宗近君はなあを引っ張った。
「つまり、
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を
「しかしそりゃ、いかん。第一
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。
疑がえば
二人はしばらく無言である。
「あの琴は
「寒くなった、狐の
丹前の胸を開いて、
「その
「うん、皮は支那に行った友人から貰ったんだがね、表は糸公が着けてくれた」
「本物だ。
「いいか、ふん。
「いい嫁の口はないかい」
「嫁の口か」と宗近君はちょっと甲野さんを見たが、気の乗らない調子で「無い事もないが……」とだらりと言葉の尾を垂れた。甲野さんは問題を転じた。
「御糸さんが嫁に行くと
「困ったって仕方がない、どうせいつか困るんだもの。――それよりか君は女房を貰わないのかい」
「僕か――だって――食わす事が出来ないもの」
「だから
「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は
「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
「行かれないんじゃない、行かないんだ」
宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
「また
「帰ってもいい。鱧ぐらいなら帰らなくってもいい。しかし君の
「するじゃないか。台所でしきりに焼いていらあね」
「そのくらい虫が知らせると
「ハハハハ。時に御叔父さんの遺物はもう、着いたか知ら」
「もう着いた時分だね。公使館の
「例の時計はどうしたろう」
「そうそう。
「考えると古い時計だね」
「そうだろう、阿爺が始めて洋行した時に買ったんだから」
「あれを御叔父さんの
「僕もそう思っていた」
「御叔父さんが今度洋行するときね、帰ったら卒業祝にこれを御前にやろうと約束して行ったんだよ」
「僕も覚えている。――ことによると今頃は藤尾が取ってまた玩具にしているかも知れないが……」
「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
甲野さんは、だまって宗近君の
四
「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず」
小野さんは色を見て世を暮らす男である。
甲野さんの日記の一筋にまた云う。
「
小野さんは
小野さんは暗い所に生れた。ある人は私生児だとさえ云う。
京都では
東京は目の
きりきりと回った
世界は色の世界である。ただこの色を
世界は色の世界である、形は色の
世界は色の世界である。いたずらに
過去の節穴を
論文が出来たから博士になるものか、博士になるために論文が出来るものか、博士に聞いて見なければ分らぬが、とにかく論文を書かねばならぬ。ただの論文ではならぬ、
のなかに、女の姿が、包まれながら消えて行く事がある。博士の二字がだんだん薄くなって机の前に
「この時計をあなたに上げたいんだけれどもと女が云う。どうか下さいと小野さんが手を出す。女がその手をぴしゃりと
小野さんは、ここまで未来をこしらえて見たが、余り

「小野清三様」と
小野さんは机に添えて
小野さんは
封を切ろうか、切るまいか。だれか来て封を切れと云えば切らぬ理由を説明して、ついでに自分も安心する。しかし人を屈伏させないととうてい自分も屈伏させる事が出来ない。あやふやな柔術使は、一度往来で人を
二階の書生がヴァイオリンを鳴らし始めた。小野さんも近日うちにヴァイオリンの稽古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は
小野さんは重い足を引き
「拝啓柳暗花明 の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀 候 。小生も不相変 頑強 、小夜 も息災に候えば、乍憚 御休神可被下 候 。さて旧臘 中一寸申上候東京表へ転住の義、其後 色々の事情にて捗 どりかね候所、此程に至り諸事好都合に埓 あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知被下度 候 。二十年前 に其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留 の外は、全く故郷の消息に疎 く、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住み古 るしたる住宅は隣家蔦屋 にて譲り受け度旨 申込 有之 、其他にも相談の口はかかり候えども、此方 に取り極め申候。荷物其他嵩張 り候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持の琴 一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。故 きを棄てがたき婦女の心情御憐察可被下 候 。
「御承知の通 小夜は五年前 当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速 かなる事を希望致し居候。同人行末 の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述 。追て其地にて御面会の上篤 と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓 の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰 みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層 途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報可致 候 。まずは右当用迄匆々 不一」
読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいた「年来住み
「御承知の
「博覧会にて御地は定めて
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち
半世の歴史を長き穂の心細きまで
自然は自然を用い尽さぬ。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと
そこへ浅井君が
「ええ天気だな」と
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分
「なかなか自分できめた事は動かない。
「近頃は
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さったんだからたしかだ」
「君これからどこかへ行くのかい」
「うん、天気がいいから遊ぶんだ。どうだいっしょに行かんか」
「僕は少し用があるから――しかしそこまでいっしょに出よう」
五
山門を入る事一歩にして、古き世の
「明かだ」と甲野さんは
「あの堂は木造でも容易に壊す事が出来ないように見える」
「つまり
「だいぶむずかしいね。――アリストートルはどうでも構わないが、この辺の寺はどれも、一種妙な感じがするのは奇体だ」
「
「あの堂を見上げて、ちょっと変な気になるのは、つまり夢窓国師になるんだな。ハハハハ。夢窓国師も少しは話せらあ」
「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を
「夢窓国師も
「そうさ、
「何が」
「何がって、この
「ちょうどおれのようだな。だから、おれは寺へ
「ハハハそうかも知れない」
「して見ると夢窓国師がおれに似ているんで、おれが夢窓国師に似ているんじゃない」
「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは
宗近君は
「夢窓国師はそんな

「それだけ、おれより下等なんだ。ちっと宗近国師の
「君は国師より馬賊になる方がよかろう」
「外交官の馬賊は少し変だから、まあ正々堂々と
「東洋専門の外交官かい」
「東洋の経綸さ。ハハハハ。おれのようなのはとうてい西洋には向きそうもないね。どうだろう、それとも修業したら、君の
「阿爺のように外国で死なれちゃ大変だ」
「なに、あとは君に頼むから構わない」
「いい迷惑だね」
「こっちだってただ死ぬんじゃない、天下国家のために死ぬんだから、そのくらいな事はしてもよかろう」
「こっちは自分一人を持て余しているくらいだ」
「元来、君は
今までは真面目の上に
「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し
「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
「たまたま
「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
「日本と
「無論さ」
「
「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」
「死ぬのと殺されるのとは同じものか」
「大概は知らぬ
すべてを
「あれを見ろ。あの堂を見ろ。
「本堂より、あれを見ろ」と甲野さんは欄干に腰をかけたまま、反対の方角を指す。
世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右に
「美しいな」と宗近君はもう天下の
「京都のものは朝夕都踊りをしている。気楽なものだ」
「だから小野的だと云うんだ」
「しかし都踊はいいよ」
「
「いいえ。あれを見るとほとんど
「そうさその理想の極端は京人形だ。人形は器械だけに
「どうも
「ハハハハいかなる哲学者でも危険だろうな。ところが都踊となると、外交官にも危険はない。
「人間の分子も、第一義が活動すると善いが、どうも普通は第十義ぐらいがむやみに活動するから
「御互は第何義ぐらいだろう」
「御互になると、これでも人間が上等だから、第二義、第三義以下には出ないね」
「これでかい」
「云う事はたわいがなくっても、そこに面白味がある」
「ありがたいな。第一義となると、どんな活動だね」
「第一義か。第一義は血を見ないと出て来ない」
「それこそ危険だ」
「血でもってふざけた
「自分の血か、人の血か」
甲野さんは返事をする代りに、売店に
「そんなとぼけた奴は、いくら血で洗ったって駄目だろう」と宗近君はなおまつわって来る。
「これは……」と甲野さんが茶碗の一つを取り上げて
「こうだ」と甲野さんが壊れた
「おい、壊れたか。壊れたって、そんなものは構わん。ちょっとこっちを見ろ。早く」
甲野さんは土間の敷居を
「何だ」と甲野さんは聞き直す。
「もう行ってしまった。惜しい事をした」
「何が行ってしまったんだ」
「あの女がさ」
「あの女とは」
「隣りのさ」
「隣りの?」
「あの
「そりゃ惜しい事をした。どれだい」
「どれだか、もう見えるものかね」
「娘も惜しいがこの茶碗は
「有ってたくさんだ。そんな茶碗は洗ったくらいじゃ
「ふうん、一個何銭ぐらいかな」
二人は茶碗の代を払って、
浮かれ人を花に送る京の汽車は
「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の
ぎいぎいと
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の
「なるほど」と甲野さんが、
「あれだ」と宗近君が
「
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は
大きな丸い岩である。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
「少しは
「まるで猿だ」と宗近君は
「
「あれで一日働いて
「若干になるかな」
「下から聞いて
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。
「君が廻せば今頃は御互に
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち
「そう困った日にゃ
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「
「まずそんなものに
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは
「ハハハハ僕は
乱れ起る岩石を左右に

「その鼻を廻ると
二人は松と桜と京人形の
赤松の
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
六
丸顔に
人に示すときは指を用いる。四つを
人に
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目に
「父一人で忙がしいものですから、つい
「博覧会へもいらっしゃらないの」
「いいえ、まだ」
「
「まだどこへも行かないの」
「そんなに御用が
「なに大した用じゃないんですけれども……」
糸子の答は大概半分で切れてしまう。
「少しは出ないと毒ですよ。春は一年に一度しか来ませんわ」
「そうね。わたしもそう思ってるんですけれども……」
「一年に一度だけれども、死ねば今年ぎりじゃあありませんか」
「ホホホホ死んじゃつまらないわね」
二人の会話は互に、死と云う字を貫いて、左右に飛び離れた。上野は浅草へ行く
「今に兄が御嫁でも貰ったら、出てあるきますわ」と糸子が云う。家庭的の婦女は家庭的の答えをする。男の用を足すために生れたと覚悟をしている女ほど憐れなものはない。藤尾は内心にふんと思った。この眼は、この
「
「いつでも、来て下さる方があれば貰うだろうと思いますの」
今度は藤尾の方で、返事をする前に糸子を
「ホホホホどんな立派な奥さんでも、すぐ出来ますわ」
「本当にそうなら、いいんですが」と糸子は半分ほど裏へ
「どなたか心当りはないんですか。
「ええ、どうぞ捜がしてちょうだい、私の姉さんのつもりで」
糸子は
「あなたの方が姉さんよ」と藤尾は向うで入れる
「なぜ?」と首を傾ける。
放つ矢のあたらぬはこちらの
「あなたは
「あらっ」と糸子の頬に
ところへ小野さんが来る。小野さんは過去に追い
小野さんは
「どうか、なすったの」と藤尾が聞いた。小野さんは心配の上に
「大変御顔の色が悪い事ね」と糸子が云った。
「二三日寝られないんです」
「そう」と藤尾が云う。
「どう、なすって」と糸子が聞く。
「近頃論文を書いていらっしゃるの。――ねえそれででしょう」と藤尾が答弁と質問を兼ねた言葉使いをする。
「ええ」と小野さんは渡りに舟の返事をした。小野さんは、どんな舟でも御乗んなさいと云われれば、乗らずにはいられない。
「そう」と糸子は軽く答える。いかなる論文を書こうと家庭的の女子は関係しない。家庭的の女子はただ顔色の悪いところだけが気にかかる。
「卒業なすっても御忙いのね」
「卒業して銀時計を御頂きになったから、これから論文で金時計を御取りになるんですよ」
「結構ね」
「ねえ、そうでしょう。ねえ、小野さん」
小野さんは微笑した。
「それじゃ、兄やこちらの
「ホホホホそれでも
「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って
「ホホホホ」
唇の動く間から前歯の
「まだ京都から
「いいえ」
「だって
「でも鉄砲玉だって云うじゃありませんか」
「だれがです」
「ほら、この間、母がそう云ったでしょう。二人共鉄砲玉だって――糸子さん、ことに宗近は大の鉄砲玉ですとさ」
「だれが?
「早く貰って御上げなさいよ。ねえ、小野さん。二人で好いのを見つけて上げようじゃありませんか」
藤尾は意味有り気に小野さんを見た。小野さんの眼と、藤尾の眼が行き当ってぶるぶると
「ええ好いのを一人周旋しましょう」と小野さんは、
「京都にはだいぶ御知合があるでしょう。京都の
小野さんの手巾はちょっと
「なに実際美しくはないんです。――帰ったら甲野君に聞いて見ると分ります」
「兄がそんな話をするものですか」
「それじゃ宗近君に」
「兄は大変美人が多いと申しておりますよ」
「宗近君は前にも京都へいらしった事があるんですか」
「いいえ、今度が始めてですけれども、手紙をくれまして」
「おや、それじゃ鉄砲玉じゃないのね。手紙が来たの」
「なに端書よ。都踊の端書をよこして、そのはじに京都の女はみんな
「そう。そんなに奇麗なの」
「何だか白い顔がたくさん並んでてちっとも分らないわ。ただ見たら好いかも知れないけれども」
「ただ見ても白い顔が並んどるばかりです。奇麗は奇麗ですけれども、表情がなくって、あまり面白くはないです」
「それから、まだ書いてあるんですよ」
「
「
「ホホホ一さんに琴の批評は出来そうもありませんね」
「私にあてつけたんでしょう。琴がまずいから」
「ハハハハ宗近君もだいぶ人の悪い事をしますね」
「しかも、御前より
「一さんは何でも露骨なんですよ。私なんぞも一さんに
「でも、あなたの事は
「おや、何と」
「御前より
「まあ、いやだ事」
藤尾は得意と軽侮の念を
小野さんの眼と藤尾の眼はこの時再び合った。糸子には意味が通ぜぬ。
「小野さん
底知れぬ黒き眼のなかに我を忘れて、
追い懸けて来る過去を
「
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が
小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、
「好いわね」と糸子が代理に答える。
詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわねぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の
「想像すると面白い
家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
五重の塔がどうもする
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
御機嫌に
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
藤尾の
「御気に
五重の塔を持ち出せばなお
「小野さん、あなたには分るでしょう」と藤尾の方から切って出る。糸子は分らず屋として取り
「分りますとも。――詩の命は事実より確かです。しかしそう云う事が分らない人が世間にはだいぶありますね」と云った。小野さんは糸子を
「それじゃ、その続をあなたに話して見ましょうか」
人を
「ええ」
「二階の下に飛石が三つばかり
糸子は黙って聴いている。小野さんも黙って聴いている。花曇りの空がだんだん
居は気を移す。藤尾の想像は空と共に
「小米桜を二階の
「まだ、ありません」
「雨の降る日に。――おや少し降って来たようですね」と庭の方を見る。空はなおさら暗くなる。
「それからね。――小米桜の
琴はいよいよ出て来た。糸子はなるほどと思う。小野さんはこれはと思う。
「二階の欄干から、見下すと
「ホホホホ
そこまで近寄って来た暗い雲は、そろそろ細い糸に変化する。すいと木立を横ぎった、あとから
「おや
「
糸子は立ち上がる。話しは春雨と共に
七
古き寺、古き

わが世界とわが世界と喰い違うとき腹を切る事がある。自滅する事がある。わが世界と
二個の世界は絶えざるがごとく、続かざるがごとく、夢のごとく
眠る夜を、生けるものは、
京の活動を七条の一点にあつめて、あつめたる活動の千と二千の世界を、
「だいぶ込み合うな」と甲野さんは室内を見廻わしながら云う。
「うん、京都の人間はこの汽車でみんな博覧会見物に行くんだろう。よっぽど乗ったね」
「そうさ、待合所が黒山のようだった」
「京都は
「ハハハハ本当に。実に閑静な所だ」
「あんな所にいるものでも動くから不思議だ。あれでもやっぱりいろいろな用事があるんだろうな」
「いくら閑静でも生れるものと死ぬものはあるだろう」と甲野さんは左の膝を右の上へ乗せた。
「ハハハハ生れて死ぬのが用事か。
「博覧会でも見に行くんだろう」
「いえ、
「へええ。いつ」
「いつか知らない。そこまでは下女に聞いて見なかった」
「あの娘もいずれ嫁に行く事だろうな」と甲野さんは
「ハハハハ行くだろう」と宗近君は
「随分早いね。何
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
汽車は
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは
「千里の
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口を
色白く、傾く月の影に生れて
紫に
隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに

「御前が京都へ来たのは
「学校を
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の
「いえ御団子はありましたわ。そら
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分
「性質が
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う
「本当にね」
明かなる夢は輪を
「小野は新橋まで
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと
神の
「おい富士が見える」と宗近君が座を
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは
「そうか、
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっともだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い
窓から肉の落ちた顔が半分出る。
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に
「どうだね」と折の
「まだ、食べたくないの」と小夜子は
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた
「もう
「ああ、もう訳はない」と
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が
「小野さんは宿を
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で
「おい、
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、
「御茶でも上がったら……
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは
「いよいよ東京へ行くと見える。
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「
「
「あんまり逢うからかい」
「うん。――
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を
「これで何遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で
「
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と
「ハハハハ。聞いてやろうか」と
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を
「糸公か。あいつは、から
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に
「さっき
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
四個の小世界は、
八
一本の
静かな椽に足音がする。今

「おや
母は藤尾の顔を見る。藤尾は火鉢の横に二つ折に畳んである新聞を
口多き時に
藤尾はやがて顔を上げた。
「帰って来たのね」
親、子の眼は、はたと行き合った。真は
「ふん」
「どうする気なんでしょう」
「どうする気か、
雲井の煙は
「帰って来ても
「同じ事さ。
「
「なあに、口だけさ。それだから
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「
「よっぽど男らしくない
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの
母は鳴る
「御茶でも入れようかね」
「いいえ」と藤尾は
母は
この作者は趣なき会話を嫌う。
「宗近と云えば、
「外交官の試験に落第したって、ちっとも恥ずかしがらないんですよ。
「鉄砲玉だよ」
意味は分からない。ただ思い切った評である。藤尾は
「御前はあの人をどう思ってるの」
娘の笑は、
「どう思ってるって……別にどうも思ってやしません」
母は鋭どき
「御前あすこへ行く気があるのかい」
「宗近へですか」と聞き直す。念を押すのは満を引いて始めて放つための
「ああ」と母は軽く答えた。
「いやですわ」
「いやかい」
「いやかいって、……あんな趣味のない人」と藤尾はすぱりと句を切った。
「あんな見込のない人は、
趣味のないのと見込のないのとは別物である。
「いっそ、ここで、
「断わるって、約束でもあるんですか」
「約束? 約束はありません。けれども
「それが、どうしたんです」
「御前が、あの時計を
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって
「それを今だに
「宗近の
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢の
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。
同時に豊かな
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この
「それじゃ

「相輪
た何ですか」と宗近君は「アハハハハそれじゃ
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の
然「相輪
はなかったようだね」と甲野さんは手を「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に
「一体御前方はただ
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。
「
「やはり
「まあ、君、大学に、法、医、文とあるようなものだよ」と宗近君は横合から、知ったような口を出す。
「まあ、そうだ」と老人は即座に賛成する。
「

「どうれで知らずに通った訳だな、君」と宗近君がまた甲野さんに話しかける。甲野さんは何とも云わずに老人の説明を謹聴している。老人は得意に弁ずる。
「そら謡曲の
「弁慶は法科にいたんだね。君なんかは横川の文科組なんだ。――
「総長とは」
「叡山の――つまり叡山を建てた男です」
「
「あんな所へ寺を建てたって、人泣かせだ、不便で仕方がありゃしない。全体
甲野さんは何だか要領を得ぬ返事を一口した。
「伝教大師は
「なるほどそう云えば分った。甲野さん分ったろう」
「何が」
「伝教大師御誕生地と云う
「あすこで生れたのさ」
「うん、そうか、甲野さん君も気が着いたろう」
「僕は気が着かなかった」
「豆に気を取られていたからさ」
「アハハハハ」と老人がまた笑う。
観ずるものは見ず。昔しの人は

過去は死んでいる。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山
々「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外
「
「アハハハ
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら坊主だろう」
「すると僕らはのらくら書生かな」
「御前達はのらくら以上だ」
「僕らは以上でもいいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「
「アハハハハ」と老人は大きな腹を
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする
と宗近君が今度は
「修業するのさ。御前達もそうのらくらしないでちとそんな
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ
一座はどっと
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから
「ええ、そう急には……」
いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも
「しかし
甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「
老人は自分の心で、わが母の心を
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら以上だからでしょう」
「アハハハハ」
九
今までは
過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が
小野さんも同じ事である。打ち
「
「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす
「
「まだ荷物などもそのままにしております……」
「御手伝に出るつもりでしたが、
日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ
小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い
家は小野さんが
「
いじらしいのと
「もっと好い
と云い
「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは
細い
五年の間
小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、
新橋へは
プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。
始めは穴を出でて
やさしく
「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」
小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の
「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと
「そのくらいでしょう、
花を
「やっぱり
「ええ」
「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか
「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」
「ええ。
「そうですか」
「
「ええ、知っています」
「
「
近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。
「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。
「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに
小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと
「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」
「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは
「私はだいぶ変りましたろう」
「見違えるように立派に御成りです事」
「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」
小夜子は何と答えていいか分らない。
「また来ましょう」と
「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。
「また来ます。御帰りになったら、どうぞ
「あの……」と
相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くと
「あの……父が……」
小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し
「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは
降らんとして降り

「今帰ったよ。どうも
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、
「今日はね。
「おやおや」と気の毒そうに
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
「
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。
「
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で
「御湯に
「なに埃だよ」
「だって風もないのに」
「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と
「おや琴を弾いているね。――なかなか
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ
時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ
娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
「
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で
娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
「変っていないたって?」と次を催促する。
「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。
「小野が何か云ったかい」
「いいえ別に……」
同じ質問と同じ返事はまた繰返される。
「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が
気が
「ちっと
娘は浮かぬ顔を、
「まあ
「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。
小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の
「だから落ちついていないんだよ。学問に
「あんなにね」
「うん」
「急いでね」
「ああ」
「御帰りに……」
「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから
「いいえ」
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。
「なに好いよ。
「御飯だけはあります」
「御飯だけあればいい、なに
小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。
十
真率なる快活なる宗近家の
悲劇マクベスの

それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは
「いや。だいぶ
「その
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々
頭はここでようやく上がる。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え?
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは
「そうですか、アハハハハ。
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、
「嵐山と云えば」と
「せんだって
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに
「私には女でいっこう分りませんが、何だか
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。
「いえ、誠に陽気で
「ごもっともで」と宗近老人は
「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」
「御蔭様で……」
「せんだって
「へええ」これは
「そりゃ、どうも」
「
「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」
「その結婚の事を
「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは
「御親切にどうもありがとう存じます」
「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人
「
謎の女は
「なるほど」
和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して
「ふん、困るね」
和尚は
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ
「弱るね、そう、
「まるで
「ふうん」と
「もし
「
「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」
「そりゃ、そう」
「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」
「
「藤尾さんは
「もう、明けて
「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた
「いえもう、
「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」
話は
「こちらでも、糸子さんやら、
「いえ、どう致して、実は
「でございますとも」
「ついては、その、藤尾さんなんですがね」
「はい」
「あの
「はい」
「どうでしょう、
「あの
「いいじゃ、ありませんか」
「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」
「御不足ならともかく、そうでなければ……」
「不足どころじゃございません。願ったり
「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」
「そう云うものでございましょうかね」
「それに御承知の通、
「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに
謎の女の云う事はしだいに
日のあたる別世界には二人の
糸子は床の間に縫物の五色を、
「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」
「替えたげましょうか」
「そうさ。替えて貰ったところで
「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」
「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」
「何が?」
「何がって、この松さ。こりゃたしか
「ええ。大事な盆栽よ。
「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる
「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」
「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」
「おやいやだ。そりゃ
「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」
「だって証拠があるんですもの」
「馬鹿の証拠がかい」
「ええ」
「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」
「その盆栽はね」
「うん、この盆栽は」
「その盆栽はね――知らなくって」
「知らないとは」
「私大嫌よ」
「へええ、
「
「何だって」
「日が
「
「なに、そりゃ、ちょっと。
「まあ発句に似たもんだ」
「似たもんだって、本当の発句じゃないの」
「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」
「これ? これは
「いやに
「
「
「あらいやだ。あんな
「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」
「おや、ひどい
「何が多過ぎても、もう駄目だよ」
「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」
「新らしいんだろうね」
「ええ、洗って張ったの」
「あの
「何が」
「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには
「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」
「達者なのは口だけか。
「まだ、あるのよ」
宗近君は返事をやめて、
「まだあるのよ。
「まだあるのよ。兄さん」
「何だい。口だけでたくさんだよ」
「だって、まだあるんですもの」と針の
「云って見ましょうか」
「う。うん」
「あし。分ったでしょう」
「う。うん」
紺の糸を
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい
「でも
「そう兄さんが
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を
「そうして
「
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに
「その
「これ?
「御前がこしらえたのかい。感心に
「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな
「なんだいこれは。へええ。
「兄さんは藤尾さんのような
「御前のようなのも好きだよ」
「私は別物として――ねえ、そうでしょう」
「
「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」
「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の
「ことに
「そうか、それじゃ聴きに行こうか」
「あら、御廃しなさいよ――わたし、
「自分の
「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」
「どうも
「気息を殺さなくってもいいわ」
「じゃ気息を活かして寝転ぶか」
「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」
「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
色「兄さん」
「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」
「藤尾さんは駄目よ」
「駄目だ? 駄目とは」
「だって来る気はないんですもの」
「御前聞いて来たのか」
「そんな事がまさか
「聞かないでも分かるのか。まるで
「
云いながら糸子は首を
「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」
「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。
「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」
「そう」と
「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」
「
「もう
「今度は是非及第なさいよ」
「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」
「
「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」
「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ
「うん」
「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」
「そうか。おやおや」
「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」
「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子を
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と
「ハハハハ見えない所でも、
「だって
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に
「
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら
「その女の
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう
「
糸子はめでたく笑った。
十一


文明を刺激の袋の底に
花電車が風を
岡は
松高くして花を隠さず、枝の
「あら」と糸子が云う。
「夜の世界は昼の世界より美しい事」と藤尾が云う。
「これは奇観だ。ざっと竜宮だね」と宗近君が云う。
「
糸子は振り返る。夜の笑は水の中で詩を吟ずるようなものである。思う所へは届かぬかも知れぬ。振り返る人の
「驚いたかい」と今度は兄が聞き直す。
「
「僕は三遍目だから驚ろかない」と宗近君は顔一面を明かるい方へ向けて云う。
「驚くうちは
黒い眼が夜を射て動く。
「あれが台湾館なの」と何気なき糸子は水を横切って指を
「あの一番右の前へ出ているのがそうだ。あれが一番善く出来ている。ねえ甲野さん」
「夜見ると」甲野さんがすぐ
「ねえ、糸公、まるで竜宮のようだろう」
「本当に竜宮ね」
「藤尾さん、どう思う」と宗近君はどこまでも竜宮が得意である。
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容は
「
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。
「だから、詩は実際に
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。
「あの横にあるのは何」と糸子が

の線は一点一劃を乱すことなく整然として一点一劃のうちに活きている。動いている。しかも明かに動いて、動く限りは形を「あの横に見えるのは何」と糸子が聞く。
「あれが外国館。ちょうど正面に見える。ここから見るのが一番奇麗だ。あの左にある高い丸い屋根が三菱館。――あの
「あの真中だけが赤いのね」と妹が云う。
「
「なるほど、天賞堂の広告見たようだ」と宗近君は知らぬ顔で俗にしてしまう。甲野さんは軽く笑って
空は低い。薄黒く大地に
は「空が
「羅馬法王の冠か。藤尾さん、羅馬法王の冠はどうだい。天賞堂の広告の方が好さそうだがね」
「いずれでも……」と藤尾は澄ましている。
「いずれでも
「何とも云えない。クレオパトラはあんな冠をかぶっている」
「どうして御存じなの」と藤尾は鋭どく聞いた。
「御前の持っている本に絵がかいてあるじゃないか」
「空より水の方が
昼でも死んでいる水は、風を含まぬ夜の影に

は、「空より水の方が奇麗よ」と注意した糸子の声に連れて、残る三人の眼はことごとく水と橋とに
「あの橋は人で
と宗近君が大きな声を出した。
小野さんは
得意な小野さんは同時に失意である。自分一人でこそ誰が眼にも当世に見える。申し分のあるはずがない。しかし時代後れの御荷物を丁寧に二人まで
「
「ああ大丈夫だよ」と知らぬ人を間に挟んだまま一軒置いて返事がある。
「何だか危なくって……」
「なに
「押されるばかりで、ちっとも押せやしないわ」と娘は落ちつかぬながら、薄い
「押さなくってもいいから、押されるだけ押されるさ」と云ううち二人は前へ出る。巡査の
「小野はどうしたかね」
「あすこよ」と眼元で
「どこに」と孤堂先生は足を
文明の波は
暗い底に
「どうも
「随分出ます」
「早く
小野さんはにやにやと笑った。
「さすが東京だね。まさか、こんなじゃ無かろうと思っていた。怖しい所だ」
「小夜や、どうだい。あぶない、もう少しで
「あの橋を通る時は……どうしようかと思いましたわ。だって
「もう大丈夫だ。何だか顔色が悪いようだね。くたびれたかい」
「少し心持が……」
「悪い? 歩きつけないのを無理に歩いたせいだよ。それにこの人出じゃあ。どっかでちょいと休もう。――小野、どっか休む所があるだろう、小夜が心持がよくないそうだから」
「そうですか、そこへ出るとたくさん茶屋がありますから」と小野さんはまた先へ立って行く。
運命は丸い池を作る。池を
「どうだい
「女連はとにかく僕の方が疲れた」
「君より糸公の方が丈夫だぜ。糸公どうだ、まだ歩けるか」
「まだ歩けるわ」
「まだ歩ける? そりゃえらい。じゃ御茶は
「でも
「ハハハハなかなか
「ありがたい」と甲野さんは薄笑をしたが、
「藤尾も休んでくれるだろうね」と同じ調子でつけ加える。
「御頼みなら」と簡明な答がある。
「どうせ女には
池の水に差し掛けて洋風に作り上げた
「あすこが
「おい気がついたか」と宗近君の腰はまず椅子に落ちた。
「うん」と云う簡潔な返事がある。
「藤尾さん小野が来ているよ。
「知っています」と云ったなり首は少しも動かなかった。黒い眼が怪しい
「どこに」と
入口を左へ行き尽くして、二列目の卓を壁際に近く囲んで小野さんの連中は席を占めている。腰を
「あら
「どうだい、
「うつくしい
「ええ」と
「見たかい甲野さん、驚いたね」
「うん、ちと妙だね」と
「だから僕が云ったのだ」
「何と云ったのだい」
「何と云ったって、忘れたかい」と宗近君も
「あら妙だわね。二人して……何を云っていらっしゃるの」と糸子が聞く。
「ハハハハ面白い事があるんだよ。糸公……」と云い掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。
「いやあ亡国の菓子が来た」
「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。
「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の
「そんな事知らないわ」と糸子は
「そら
「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」
「云わない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そう云ったじゃないか」
「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」
「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子が
「そう
「もう叱られる
「ホホホホ一人で
「藤尾は何も食わないのか」と甲野さんは茶碗を口へ付けながら聞く。
「たくさん」と云ったぎりである。
甲野さんは静かに茶碗を
四人が席を立った時、藤尾は
「もう小野は帰ったよ、藤尾さん」と宗近君は
「驚ろくうちは
驚くうちは楽がある! 女は仕合せなものだ!
十二
貧乏を十七字に
仙人は

文明の詩は
詩を作るより田を作れと云う。詩人にして産を成したものは古今を傾けて幾人もない。ことに文明の民は詩人の歌よりも詩人の
詩人ほど金にならん
天地はこの有望の青年に対して
四五日は
小夜子を捨てるためではない、孤堂先生の世話が出来るために、早く藤尾と結婚してしまわなければならぬ。――小野さんは自分の
ここまで考えた小野さんはやがて机の上に置いてある、茶の表紙に豊かな金文字を入れた厚い書物を
「おや御出掛。少し御待ちなさいよ」
「何だ」と草履から顔を上げる。下女は笑っている。
「何か用かい」
「ええ」とやっぱり笑っている。
「何だ。
「ホホホホ
「誰だい」
「あら待ってた癖に空っとぼけて……」
「待ってた? 何を」
「ホホホホ大変
「そこを
男はおやと思う。姿勢だけは
「さあ」と小野さんは隔たる人を近く誘うような
「どちらへか御出掛で……」と立ちながら両手を前に重ねた女は、落した肩を、少しく浮かしたままで、気の毒そうに動かない。
「いえ何……まあ
「御免」と云いながら、手を重ねたまま
男は全く部屋の中へ引き込んだ。女もつづいて
「昨夜は
「いえ、さぞ御疲でしたろう。どうです、御気分は。もうすっかり好いですか」
「はあ、
「あんな
文明の民は驚ろいて喜ぶために博覧会を開く。過去の人は驚ろいて
「先生はどうですか」
小夜子は返事を控えて
「先生も
「どうも年を取ったもんですから」と気の毒そうに、相手から眼を
「御迷惑でしたろう」と小野さんは
「いえ、迷惑だなんて。こっちから願って置いて」と小夜子は頭から小野さんの言葉を打ち消した。男は煙草入を開く。裏は一面の
「先生だけなら、もっと閑静な所へ案内した方が好かったかも知れませんね」
忙しがる小野を無理に都合させて、
「先生にはやはり京都の方が好くはないですか」と女の躊躇った
「東京へ来る前は、しきりに早く移りたいように云ってたんですけれども、来て見るとやはり住み
「そうですか」と小野さんはおとなしく受けたが、心の
「あなたは」と聞いて見る。
小夜子はまた
「どちらへか御出掛で」と女はすぐ悟った。
「ええ、ちょっと」と
女はまた口籠る。男は少し
「実は父が……」と小夜子はやっとの思で口を切った。
「はあ、何か御用ですか」
「いろいろ買物がしたいんですが……」
「なるほど」
「もし、
「はあ、そうですか。そりゃ、残念な事で。ちょうど今から急いで出なければならない所があるもんですからね。――じゃ、こうしましょう。品物の名を聞いて置いて、
「それでは御気の毒で……」
「何構いません」
父の好意は再び
紫を
心臓の扉を

愛の対象は
縄なくて
我は猛然として立つ。その儀ならばと云う。振り向いてもならぬ。不審を打ってもならぬ。一字の批評も不見識である。
我の女はいざと云う
愛は信仰より成る。信仰は二つの神を念ずるを許さぬ。愛せらるべき、わが資格に、
神聖とは自分一人が
玩具にされたのならこのままでは置かぬ。
よし来ても
小野はどうしても
静かな
拭き込んだ細かい
紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
声は
「また夢か」と欽吾は立ったまま、癖のない
「何です」と云いなり女は、顔を向け直した。
男は、眼さえ動かさない。
「
女は答える前に熱い団子をぐいと
「ええ」と極めて冷淡な
「それは好かった」と落ちつき払って云う。
女は
「驚くうちは
女は
姿勢を変えるさえ
「そうさ」と云ったのみである。
「兄さんのように学者になると驚きたくっても、驚ろけないから楽がないでしょう」
「
「楽はそうないさ。その代り安心だ」
「なぜ」
「楽のないものは自殺する
藤尾には兄の云う事がまるで分らない。蒼い顔は依然として見下している。なぜと聞くのは不見識だから黙っている。
「御前のように
藤尾は思わず黒髪に波を打たした。きっと見上げる上から兄は分ったかとやはり
「小野は相変らず来るかい」
藤尾の眼は火打石を
「来ないかい」と云う。
藤尾はぎりぎりと歯を
「兄さん」
「何だい」とまた見下す。
「あの金時計は、あなたには渡しません」
「おれに渡さなければ誰に渡す」
「当分
「当分御前があずかる? それもよかろう。しかしあれは宗近にやる約束をしたから……」
「宗近さんに上げる時には私から上げます」
「御前から」と兄は少し顔を低くして妹の方へ眼を近寄せた。
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と
「そうか」
と兄は
甲野さんが幽霊のごとく現われて、幽霊のごとく消える間に、小野さんは近づいて来る。いくたびの降る雨に、土に
世を
「どこへ」と小野さんは帽に手を懸けて、笑いながら寄ってくる。
「やあ」と受け
「今、ちょっと行こうと思って……」
「行きたまえ。藤尾はいる」と甲野さんは素直に相手を通す気である。小野さんは
「君はどこへ」とまた聞き直す。君の妹には用があるが、君はどうなっても構わないと云う態度は小野さんの取るに忍びざるところである。
「僕か、僕はどこへ行くか分らない。僕がこの杖を引っ張り廻すように、何かが僕を引っ張り廻すだけだ」
「ハハハハだいぶ哲学的だね。――散歩?」と下から
「ええ、まあ……好い天気だね」
「好い天気だ。――散歩より博覧会はどうだい」
「博覧会か――博覧会は――
「昨夕行ったって?」と小野さんの眼は一時に坐る。
「ああ」
小野さんはああの後から何か出て来るだろうと思って、控えている。
「一人で行ったのかい」と今度はこちらから聞いて見る。
「いいや。誘われたから行った」
甲野さんにははたして
「そうかい、奇麗だったろう」とまず
「うん」の一句で答をしてしまう。こっちは考のまとまらないうち、すぐ何とか付けなければならぬ。始めは「誰と?」と聞こうとしたが、聞かぬ前にいや「
「まあ行きたまえ」とまた甲野さんが云う。催促されるような気持がする。運命が左へと
「じゃあ……」と小野さんは帽子をとる。
「そうか、じゃあ失敬」と細い杖は空間を二尺ばかり小野さんから
一歩の空間を行き尽した靴は、光る
「藤尾さんも、昨夕いっしょに行ったのかい」
棒のごとく
「ああ、藤尾も行った。――ことに
細い杖は地に着くがごとく、また地を離るるがごとく、立つと思えば傾むき、傾むくと思えば立ち、無限の空間を刻んで行く。光る靴は突き込んだ頭に薄い泥を心持わるく
小野さんが玄関に掛かると同時に、藤尾は椽の柱に
欽吾はわが腹を痛めぬ子である。――謎の女の
老いて
他人でも合わぬとは限らぬ。
小野さんは
欽吾は一文の財産もいらぬと云う。家も藤尾にやると云う。義理の着物を脱いで便利の
謎の女は問題の解決に苦しんでとうとう六畳敷を出た。貰いたいものを
「何を考えているの」
「おや、
「どうかしたのかい」と謎が云う。
「なぜ」と
「だって、何だか考え込んでいるからさ」
「何にも考えていやしません。庭の景色を見ていたんです」
「そう」と謎は意味のある顔つきをした。
「池の
「おやおや。――
聞えないんではない。謎で夢中になっていたのである。
「そう」と今度は我の方で意味のある顔つきをする。世はさまざまである。
「おや、もう
「ええ。まだ気がつかなかったの」
「いいえ。今
蓮の葉が出たあとには蓮の花が咲く。蓮の花が咲いたあとには
緋鯉ががぽちゃりとまた跳ねる。
「何だって、あんなに跳ねるんだろうね」と聞いた。謎の女が謎を考えるごとく、緋鯉もむやみに跳ねるのであろう。
浮き立ての蓮の葉を称して支那の詩人は
母は無意味に池の上を

「近頃、小野さんは来ないようだね。どうかしたのかい」と聞いて見る。
藤尾は
「どうしたんですか」とじっと母を見た上で、澄してまた庭の方へ
「来ないなら、何とか云って来そうなもんだね。病気でもしているんじゃないか」
「病気だって?」と藤尾の声は
「いいえさ。病気じゃないかと聞くのさ」
「病気なもんですか」
「あの人はいつ博士になるんだろうね」
「いつですか」とよそごとのように云う。
「
「小野さんに喧嘩が出来るもんですか」
「そうさ、ただ教えて貰やしまいし、相当の礼をしているんだから」
謎の女にはこれより以上の解釈は出来ないのである。藤尾は返事を見合せた。
「さっき欽吾が来やしないか」と母はまた質問を掛ける。鯉は
「さっき欽吾が来やしないか」と云う。
「来たわ」
「どうだい様子は」
「やっぱり相変らずですわ」
「あれにも、本当に……」で薄く八の字を寄せたが、
「困り者だね」と切った時、八の字は見る見る深くなった。
「何でも奥歯に物の
「皮肉なら好いけれども、時々気の知れない
「あれが哲学なんでしょう」
「哲学だか何だか知らないけれども。――さっき何か云ったかい」
「ええまた時計の事を……」
「返せって云うのかい。
「今どっかへ出掛けたでしょう」
「どこへ行ったんだろう」
「きっと宗近へ行ったんですよ」
対話がここまで進んだ時、小野さんがいらっしゃいましたと下女が両手をつかえる。母は自分の部屋へ引き取った。
「
「いらっしゃい」と真面目な顔をして、始めて相手をまともに見る。見られた小野さんの
「
「いいえ」と女は
男は出鼻を
「だいぶ
「ええ」
座敷のなかにこの二句を点じただけで、
鯉がと云おうとした小野さんはまた
四五日来なかったのが気に入らないなら、どうでもなる。
若い女と連れ立って路を行くは当世である。ただ歩くだけなら名誉になろうとも
ただの女と云い切れば済まぬ事もない。その代り、人も嫌い自分も好かぬ

「
「ええ、行きました」
迷っている男の
「
「奇麗でした」と女は
「人間もだいぶ奇麗でした」と浴びせるように付け加えた。小野さんは思わず藤尾の顔を見る。少し
「そうでしたか」と云った。
「奇麗な人間もだいぶ見ましたよ」と藤尾は鋭どく繰り返した。何となく物騒な句である。なんだか無事に通り抜けられそうにない。男は仕方なしに口を
「誰か
今度は女の返事がない。どこまでも一つ関所を守っている。
「今、門の所で甲野さんに逢ったら、甲野さんもいっしょに行ったそうですね」
「それほど知っていらっしゃる癖に、何で御尋ねになるの」と女はつんと
「いえ、別に御伴でもあったのかと思って」と小野さんは、うまく逃げる。
「兄の
「ええ」
「兄に聞いて御覧になればいいのに」
機嫌は依然として悪いが、うまくすると、どうか、こうか
「甲野君に聞こうと思ったんですけれども、早く上がろうとして急いだもんですから」
「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。その
「そんなに
「いえ、四五日大変忙しくって、どうしても来られなかったんです」
「昼間も」と女は肩を
「ええ?」と変な顔をする。
「昼間もそんなに忙しいんですか」
「昼間って……」
「ホホホホまだ分らないんですか」と今度はまた庭まで響くほどに
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。
「あんまり、勉強なさるとかえって金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は
「実は一週間前に京都から
「おや、そう、ちっとも知らなかったわ。それじゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と
「京都におった時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の
「ええ――知って――います」
「知っていらっしゃる。――いらっしゃるでしょう。あすこで
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ちついた風を、
「大変
小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、
藤尾は一さんと云う名前を妙に響かした。
春の影は
十三
太い角柱を二本立てて門と云う。扉はあるかないか分らない。
やがて静かなうちで、すうと
下女もおり書生も置く身は、気軽く構えても

「あら」
同時に杖の
「
「今ちょっと」と答えたのみで、苦のない
「御留守ですか。――
「父は
「そう」と男は長い
「まあ、
「ありがとう」と甲野さんは壁に物を云う。
「どうぞ」と誘い込むように片足を
「ありがとう」
「どうぞ」
「どこへ行ったんです」と甲野さんは壁に向けた顔を、少し女の方へ振り直す。
「散歩でしょう」と女は首を傾けて云う。
「
「じゃ、少し上がって休んでいらっしゃい。もう帰る時分ですから」
話は少しずつ延びる。話の延びるのは気の延びた証拠である。甲野さんは
「
「いいえ」
「疲れない?
「だって、
「電車は疲れるもんですがね」
「どうして」
「あの人で。あの人で疲れます。そうでも無いですか」
糸子は丸い頬に
「面白かったですか」と甲野さんが聞く。
「ええ」
「何が面白かったですか。イルミネーションがですか」
「ええ、イルミネーションも面白かったけれども……」
「イルミネーションのほかに何か面白いものが有ったんですか」
「ええ」
「何が」
「でもおかしいわ」と首を
「何ですかその面白かったものは」
「云って見ましょうか」
「云って御覧なさい」
「あの、
「ええ、あの御茶が面白かったんですか」
「御茶じゃないんです。御茶じゃないんですけれどもね」
「ああ」
「あの時小野さんがいらしったでしょう」
「ええ、いました」
「美しい
「美しい? そう。若い人といっしょのようでしたね」
「あの方を御存じでしょう」
「いいえ、知らない」
「あら。だって兄がそう云いましたわ」
「そりゃ顔を知ってると云う意味なんでしょう。話をした事は一遍もありません」
「でも知っていらっしゃるでしょう」
「ハハハハ。どうしても知ってなければならないんですか。実は
「だから、そう云ったんですわ」
「だから何と」
「面白かったって」
「なぜ」
「なぜでも」
塗り立てて
「あの女はそんなに美人でしょうかね」
「私は美いと思いますわ」
「そうかな」と甲野さんは
「美しい花が咲いている」
「どこに」
糸子の目には正面の赤松と
「どこに」と暖い
「あすこに。――そこからは見えない」
糸子は少し腰を上げた。長い
「あら」と女は
「奇麗でしょう」
「ええ」
「知らなかったんですか」
「いいえ、ちっとも」
「あんまり小さいから気がつかない。いつ咲いて、いつ消えるか分らない」
「やっぱり桃や桜の方が奇麗でいいのね」
甲野さんは返事をせずに、ただ口のうちで
「憐れな花だ」と云った。糸子は黙っている。
「
「どうして」と女は不審そうに聞く。男は長い眼を
「あなたは気楽でいい」と真面目に云う。
「そうでしょうか」と真面目に答える。
「いいですよ。それでいい。それで無くっちゃ駄目だ。いつまでもそれでなくっちゃ駄目だ」
糸子は美くしい歯を
「どうせこうですわ。いつまで立ったって、こうですわ」
「そうは行かない」
「だって、これが生れつきなんだから、いつまで立ったって、変りようがないわ」
「変ります。――
「どうしてでしょうか」
「離れると、もっと利口に変ります」
「
甲野さんは世に気の毒な顔をして糸子のあどけない口元を見ている。
「藤尾がそんなに
「ええ、本当に羨ましいわ」
「糸子さん」と男は突然優しい調子になった。
「なに」と糸子は打ち解けている。
「藤尾のような女は今の世に有過ぎて困るんですよ。気をつけないと
女は依然として、肉余る
「藤尾が一人出ると
「あなたはそれで結構だ。動くと変ります。動いてはいけない」
「動くと?」
「ええ、恋をすると変ります」
女は
「嫁に行くと変ります」
女は
「それで結構だ。嫁に行くのはもったいない」
可愛らしい二重瞼がつづけ様に二三度またたいた。結んだ口元をちょろちょろと
十四
電車が赤い札を
「おいおい」と大きな声で後から呼ぶ。
二十四五の夫人がちょっと振り向いたまま行く。
「おい」
今度は
呼ばれた本人は、知らぬ
「おい」と
「おい」と手を懸けたまま肩をゆす振る。小野さんはゆす振られながら向き直った。
「誰かと思ったら……失敬」
小野さんは帽子のまま
「何を考えてるんだ。いくら呼んでも
「そうでしたか。ちっとも気がつかなかった」
「急いでるようで、しかも地面の上を歩いていないようで、少し妙だよ」
「何が」
「君の
「二十世紀だから、ハハハハ」
「それが新式の歩行方か。何だか片足が新で片足が旧のようだ」
「実際こう云うものを
小野さんは両手を前の方へ出して、この通りと云わぬばかりに、自分から下の方へ眼を着けて見せる。宗近君も自然と腰から下へ視線を移す。
「何だい、それは」
「こっちが
「そんなハイカラな
「妙でも仕方がない、頼まれものだから」
「頼まれて妙になるのは感心だ。君に紙屑籠を
小野さんは黙って笑ながら
「時にどこへ行くんだね」
「これを持って……」
「それを持って帰るのかね」
「いいえ。頼まれたから買って行ってやるんです。君は?」
「僕はどっちへでも行く」
小野さんは内心少々当惑した。急いでいるようで、しかも地面の上を
常でさえ宗近君に
気の毒はこれだけで気の毒である上に、宗近君が気楽に構えて、
気の毒とは自我を没した言葉である。自我を没した言葉であるからありがたい。小野さんは心のうちで宗近君に気の毒だと思っている。しかしこの気の毒のうちに大いなる
「散歩ですか」と小野さんは
「うん。今、その
この答は少々論理に
「僕は少し急ぐから……」
「僕も急いで
「なにいいです。見っともない」
「まあ、出しなさい。なるほど
「そう云う風に
「物は提げ様一つさ。ハハハハ。こりゃ
「だから、まあ往来を持って歩けるんだ。本当の紙屑が
「なに持って歩けるよ。電車は人屑をいっぱい詰めて威張って往来を歩いてるじゃないか」
「ハハハハすると君は屑籠の運転手と云う事になる」
「君が屑籠の社長で、頼んだ男は株主か。
「
「そんなものは
「ただの反古を入れて置いて、催眠術を掛けて貰う方が早そうだ」
「まず人間の方で先に
「なかなか隗より始めたがらないですよ。人間の反故が自分で屑籠の中へ這入ってくれると都合がいいんだけれども」
「自働屑籠を発明したら好かろう。そうしたら人間の反故がみんな自分で飛び込むだろう」
「一つ専売でも取るか」
「アハハハハ好かろう。知ったもののうちで飛び込ましたい人間でもあるかね」
「あるかも知れません」と小野さんは切り抜けた。
「時に君は
見物に行った事はさっき露見してしまった。
「ええ、君らも行ったそうですね」と小野さんは何気なく答えた。
「あれは君の何だい」
「少し猛烈ですね。――
「あの女は、それじゃ恩師の令嬢だね」
「まあ、そんなものです」
「ああやって、いっしょに茶を飲んでいるところを見ると、他人とは見えない」
「兄妹と見えますか」
「夫婦さ。好い夫婦だ」
「恐れ入ります」と小野さんはちょっと笑ったがすぐ眼を
「君、あすこにだいぶ新刊の書物が来ているようだが、見ようじゃありませんか」
「書物か。何か買うのかい」
「面白いものがあれば買ってもいいが」
「屑籠を買って、書物を買うのはすこぶるアイロニーだ」
「なぜ」
宗近君は返事をする前に、屑籠を提げたまま、電車の間を向側へ
「はあだいぶ奇麗な本が陳列している。どうだい欲しいものがあるかい」
「さよう」と小野さんは腰を屈めながら金縁の
「みんな欲しそうだね」と宗近君は書物を見ずに、小野さんの眼鏡ばかり見ている。
「みんな新式な
「表紙だけ奇麗にして、内容の保険をつけた気なのかな」
「あなた方のほうと違って文学書だから」
「文学書だから
「どうも、きびしい。しかしある意味で云えば、文学者も多少美術品でしょう」と小野さんはようやく窓を離れた。
「美術品で結構だが、金縁眼鏡だけで保険をつけてるのは
「とかく眼鏡が
「勉強しないから、なりたくてもなれない」
「遠視眼でもないんですか」
「
二人は肩を
「君、
「ええ。鵜がどうかしたんですか」
「あの鳥は魚をせっかく呑んだと思うと吐いてしまう。つまらない」
「つまらない。しかし魚は
「だからアイロニーさ。せっかく本を読むかと思うとすぐ
「そう云われると学者も気の毒だ。何をしたら好いか分らなくなる」
「
「さよう」と小野さんは
「
「名前なんか忘れたが、何でも女をごまかしたり、女房をうっちゃったりしたのがいるぜ」
「そんなのはいないでしょう」
「なにいる、たしかにいる」
「そうかな。僕もよく覚えていないが……」
「専門家が覚えていなくっちゃ困る。――そりゃそうと
小野さんの
「あれは僕よく知ってるぜ」
「
「琴を弾いていた」
「なかなか
「旨いんだろう、何となく
「ハハハハそれこそアイロニーだ」と小野さんは笑った。小野さんの笑い声はいかなる場合でも静の一字を離れない。その上
「冷やかすんじゃない。
「しかし眠気を催しちゃ困りますね」
「眠気を催おすところが好いんだ。人間でもそうだ。眠気を催おすような人間はどこか
「古くって尊といんでしょう」
「君のような新式な男はどうしても眠くならない」
「だから尊とくない」
「ばかりじゃない。ことに依ると、尊とい人間を時候
「今日は何だか攻撃ばかりされている。ここいらで御分れにしましょうか」と小野さんは少し苦しいところを、わざと笑って、立ち留る。同時に右の手を出す。紙屑籠を受取ろうと云う
「いや、もう少し持ってやる。どうせ暇なんだから」
二人はまた歩き出す。二人が二人の心を並べたままいっしょに歩き出す。双方で双方を
「君は毎日暇のようですね」
「僕か? 本はあんまり読まないね」
「ほかにだって、あまり忙がしい事がありそうには見えませんよ」
「そう忙がしがる必要を認めないからさ」
「結構です」
「結構に出来る間は結構にして置かんと、いざと云う時に困る」
「臨時応急の結構。いよいよ結構ですハハハハ」
「君、相変らず甲野へ行くかい」
「今行って来たんです」
「甲野へ行ったり、恩師を案内したり、忙がしいだろう」
「甲野の方は四五日休みました」
「論文は」
「ハハハハいつの事やら」
「急いで出すが好い。いつの事やらじゃせっかく忙がしがる
「まあ臨時応急にやりましょう」
「時にあの恩師の令嬢はね」
「ええ」
「あの令嬢についてよっぽど面白い話があるがね」
小野さんは急にどきんとした。何の話か分らない。眼鏡の
「どんな……」と聞き返した時は何となく
「どんなって、よっぽど深い
「誰が」
「僕らとあの令嬢がさ」
小野さんは少し安心した。しかし何だか引っ掛っている。浅かれ深かれ宗近君と
「あの令嬢がね。小野さん」
「ええ」
「あの令嬢がねじゃいけない。あの令嬢をだ。――見たよ」
「宿の二階からですか」
「二階からも見た」
もの字が少し気になる。春雨の欄に出て、
「
「見ただけですか」
「知らない人に話は出来ない。見ただけさ」
「話して見れば好かったのに」
小野さんは突然
「団子を食っているところも見た」
「どこで」
「やっぱり
「それっ切りですか」
「まだ有る。京都から東京までいっしょに来た」
「なるほど勘定して見ると同じ汽車でしたね」
「君が
「そうでしたか」と小野さんは苦笑した。
「あの人は東京ものだそうだね」
「誰が……」と云い掛けて、小野さんは、眼鏡の
「誰が? 誰がとは」
「誰が話したんです」
小野さんの調子は存外落ついている。
「宿屋の下女が話した」
「宿屋の下女が?
念を押したような、
「うん」と宗近君は云った。
「蔦屋の下女は……」
「そっちへ曲るのかい」
「もう少し、どうです、散歩は」
「もう好い加減に引き返そう。さあ大事の紙屑籠。落さないように持って行くがいい」
小野さんは
一人になると急ぎたくなる。急げば早く孤堂先生の
宗近と云う男は学問も出来ない、勉強もしない。詩趣も解しない。あれで将来何になる気かと不思議に思う事がある。何が出来るものかと
しかしあの男の前へ出て感じる圧迫は一種妙である。露骨から来るのか、単調から来るのか、いわゆる昔風の率直から来るのか、いまだに解剖して見ようと企てた事はないがとにかく妙である。故意に自分を
藤尾には
それが何となく苦しい。これから先生の所へ行けばきっと二重の嘘を吐かねばならぬような話を持ちかけられるに違ない。切り抜ける手はいくらもあるが、
ただ機一髪と云う
春は行く。行く春は暮れる。絹のごとき
曲って左側の三軒目まで来た。門構と云う名はつけられない。往来をわずかに仕切る
「御免」と云う。
静かな声は落ついた春の調子を乱さぬほどに
平生からあまり丈夫には見えない。骨が細く、
昇るものは、昇りつつある自覚を抱いて、
「やあ、これは」と先生は機嫌が好い。運命の車で降りるものが、昇るものに出合うと自然に機嫌がよくなる。
「さあ御上り」とたちまち座敷へ取って返す。小野さんは靴の
「さあ御上り」
座敷の真中に、昼を
「どうか、なさいましたか」
「何だか、今朝から心持が悪くってね。それでも朝のうちは我慢していたが、
「いえ、今格子を
「そうかい。何でも誰か来たようだから驚いて出て見た」
「そうですか、それは御邪魔をしました。寝ていらっしゃれば好かったですね」
「なに大した事はないから。――それに小夜も婆さんもいないものだから」
「どこかへ……」
「ちょっと風呂に行った。買物かたがた」
床の抜殻は、こんもり高く、
「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう」と先生は立ち上がる。
「寝ていらしったら好いでしょう」
「いや少し起きて見よう」
「何ですかね」
「
「
「いえ、なに。――時に昨夕は大きに御厄介」
「いいえ」
「小夜も大変喜んで。
「もう少し
「忙がしいだろうからね。いや忙がしいのは結構だ」
「どうも御気の毒で……」
「いや、そんな心配はちっとも
小野さんは黙った。部屋はしだいに暗くなる。
「時に飯は食ったかね」と先生が聞く。
「ええ」
「食った?――食わなければ御上り。何にもないが茶漬ならあるだろう」とふらふらと立ち
「先生、もう好いんです。飯は済まして来たんです」
「本当かい。遠慮しちゃいかん」
「遠慮しやしません」
黒い影は折れて
「咳が出ますか」
「から――からっ咳が出て……」と云い
「横になって
「いえ、もう大丈夫。出だすと
若いうちの事だとは今まで毎度聞いた言葉である。しかし孤堂先生の口から聞いたのは今が始めてである。骨ばかりこの世に取り残されたかと思う人の、
生涯の損をしてこの先生のように老朽した時の心持は定めて
「東京は変ったね」と先生が云う。
「
「恐ろしいくらいだ。
「随分人が出ましたから」
「出たねえ。あれでも知った人には
「そうですね」と
「逢うかね」
小野さんは「まあ……」と濁しかけたが「まあ、逢わない方ですね」と思い切ってしまった。
「逢わない。なるほど広い所に違ない」と先生は大いに感心している。なんだか
「いっしょにあるいたのも久しぶりだね。今年でちょうど五年目になるかい」とさも
「ええ五年目です」
「五年目でも、十年目でも、こうして一つ所に住むようになれば結構さ。――小夜も喜んでいる」と後から
「さっき御嬢さんが
「ああ、――なに急ぐ事でも無かったんだが、もしや暇があったらいっしょに連れて行って買物をして貰おうと思ってね」
「あいにく
「そうだってね。飛んだ御邪魔をしたろう。どこぞ急用でもあったのかい」
「いえ――急用でもなかったんですが」と相手は少々言い
「はあ、そうかい。そりゃあ」と
「先生、
「それはありがたい。どれ」
小野さんは薄暗いなかを玄関へ出て、台と
「はあ――何だか暗くってよく見えない。
「私が
「気の毒だね。もう帰って来る時分だが。じゃ椽側へ出ると右の戸袋のなかにあるから頼もう。掃除はもうしてあるはずだ」
薄暗い影が一つ立って、
やがて
「ちょうどよく合うね。
「
「模擬でも立派なものだ。代は?」
「何ようござんす」
「よくはない。いくらかね」
「両方で四円少しです」
「四円。なるほど東京は物が高いね。――少しばかりの恩給でやって行くには京都の方が
二三年前と違って、先生は
「なに小夜さえなければ、京都にいても
「
「住み好い所ではありませんね」
「これでも昔は親類も二三軒はあったんだが、長い間
「なるほど」
「まあ御前が
「御役にも立ちませんで……」
「いえ、いろいろ親切にしてくれてまことにありがたい。
「論文の方がないと、まだ
「論文。博士論文だね」
「ええ、まあそうです」
「いつ出すのかね」
いつ出すのか分らなかった。早く出さなければならないと思う。こんな引っ掛りがなければ、もうよほど書けたろうにと思う。口では
「今一生懸命に書いてるところです」と云う。
先生は
「どうも、ぞくぞくする」と細長い
「
「なに、まあ御話し。もう小夜が帰る時分だから。寝たければ
先生は急に胸の中から、手を出して
「まあ
迷惑のうちにも小野さんはさすが気の毒に思った。これほどまでに自分を引き留めたいのは、ただ当年の
実は
「時に小夜の事だがね」と先生は

「時に小夜の事だがね。知っての通りああ云う内気な
「いいえ――どうして――」と受けて、ちょっと句を切って見せたが、先生は依然として、こっちの顔から
「気にいらんなんて――そんな事が――あるはずがないですが」とぽつぽつに答える。ようやくに
「あれも
小野さんは、そうだとも、そうでないとも云わなかった。手は
「
「そりゃ
「そこは私も安心している。しかし女は気の狭いものでね。アハハハハ困るよ」
何だか無理に笑ったように聞える。先生の顔は笑ったためにいよいよ
「そんなに御心配なさる事も
「私はいいが、小夜がさ」
小野さんは右の手で洋服の膝を
「御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない」
「そうでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」
「そりゃ
小野さんはまた返事のしようがなかった。
東京は
小野さんは何を思ったか、左手を畳へつかえると、右を
「もう好い。そのくらいで好い。あんまり出すと危ない」と先生が云う。
小野さんは手を放した。手を引くときに、自分でカフスの奥を腕まで
「少し
「あの婆さんが切るといつでも曲る」と先生は
「時にあの婆さんはどうです、御間に合いますか」
「そう、まだ礼も云わなかったね。だんだん
「いいえ。実は年を取ってるから働らけるかと思ったんですが」
「まあ、あれで結構だ。だんだん
「そうですか、そりゃ好い
「そうかい。時に浅井と云えば、どうしたい。まだ帰らないかい」
「もう帰る時分ですが。ことに
「
「はあ、そうでしたか」と云ったぎり、小野さんは
「先生」と云う。顔は先生の方へ向け
「何だい」
「今の御話ですね」
「うん」
「もう二三日待って下さいませんか」
「もう二三日」
「つまり要領を得た御返事をする前にいろいろ考えて見たいですから」
「そりゃ好いとも。三日でも四日でも、――一週間でも好い。事が
「ええ、どうか」と云いながら恩賜の時計を出す。夏に向う永い日影が落ちてから、
「じゃ、今夜は失礼します」
「まあ好いじゃないか。もう帰って来る」
「また、すぐ来ますから」
「それでは――
小野さんはすっきりと立つ。先生は
「もう、どうぞ。分ります」と云いつつ玄関へ出る。
「やあ、月夜だね」と洋灯を肩の高さに支えた先生がいう。
「ええ
「京都はなお穏だよ」
「清三」と先生は洋灯の影から呼び留めた。
「ええ」と小野さんは月のさす方から振り向いた。
「なに別段用じゃない。――こうして東京へ出掛けて来たのは、小夜の事を早く片づけてしまいたいからだと思ってくれ。分ったろうな」と云う。
小野さんは
外は
小野さんの靴は、

々実は
なぜこう気が弱いだろう――小野さんは考えながら、ふらふら歩いている。――なぜこう気が弱いだろう。頭脳も人には負けぬ。学問も級友の倍はある。挙止動作から
女の話し声がする。人影は二つ、路の向う側をこちらへ近づいて来る。
「
二人の話はここで小野さんの
浅井のように気の毒気の少ないものなら、すぐ片づける事も出来る。
いかに人情でも、こんなに優柔ではいけまい。手を
月はまだ
十五
部屋は南を向く。
仏蘭西窓を右に避けて一脚の机を
そのほかに
書棚は壁に片寄せて、
小野さんは
こう云う書斎に
高等学校こそ違え、大学では
正面の窓を明けたらば、石一級の歩に過ぎずして、広い
右手の小窓は、
やがて、かたりと書物を置き
「多くの人は
甲野さんは、指先に軸を
洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。
「剣客の剣を舞わすに、力
甲野さんはまた日記を取り上げた。青貝の
余り大きくはない。半身とは云え
名のある人の筆になると云う。三年
見下すだけあって活きている。眼玉に締りがある。それも丹念に塗りたくって、根気任せに
想界に
親父も気の毒な事をした。もう少し生きれば生きられる年だのに。
活きている眼は、壁の上から甲野さんを見詰めている。甲野さんは
馬鹿馬鹿しい。が近頃時々こんな事がある。
それもただの場合ならともかくである。親父の事を思い出すたびに、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさえ気の毒である。実世界に住むとは、名ばかりの衣と住と食とを
十人は十人の
「じゃあ、まだ話さないんですね」と藤尾が云う。茶の勝った
「欽吾にかい」と母が聞き直す。これもくすんだ
「ええ」と応じた藤尾は
「兄さんは、まだ知らないんでしょう」と念を押す。
「まだ話さないよ」と云ったぎり、母は落ちついている。
「おや、
煙管は火鉢の向う側にある。長い
「はい」と手取形の
「話したら何とか云うでしょうか」と差し出した手をこちら側へ引く。
「云えば
五徳の下で、存分に吸いつけた母は、鼻から出る煙と共に口を
「話はいつでも出来るよ。話すのが好ければ
「そりゃ私だって、自分の考がきまった以上は、兄さんがいくら何と云ったって承知しやしませんけれども……」
「何にも云える人じゃないよ。相談相手に出来るくらいなら、
「でも兄さんの心持一つで、こっちが困るようになるんだから」
「そうさ。それさえなければ、話も何も
「その癖、何か話すたんびに、財産はみんな御前にやるから、そのつもりでいるがいいって云うんですがね」
「云うだけじゃ仕方がないじゃないか」
「まさか催促する訳にも行かないでしょう」
「なにくれるものなら、催促して
「だから、話したら
「何を」
「何をって、あの事を」
「小野さんの事かい」
「ええ」と藤尾は
「話しても好いよ。どうせいつか話さなければならないんだから」
「そうしたら、どうにかするでしょう。まるっきり財産をくれるつもりなら、くれるでしょうし。幾らか分けてくれる気なら、分けるでしょうし、家が厭ならどこへでも行くでしょうし」
「だが、
「だって
「どうするつもりも何も有りゃしない。ただああやってぐずぐずして人を困らせる男なんだよ」
「少しはこっちの様子でも分りそうなもんですがね」
母は黙っている。
「この間金時計を
「小野さんに上げると御云いのかい」
「小野さんにとは云わないけれども。
「妙だよあの人は。藤尾に養子をして、面倒を見て
「ふん」と受けた藤尾は、細い首を横に庭の
静かな庭を一目見廻わした藤尾は再び横顔を返して、母を
「宗近の方は大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫でなくったって、仕方がないじゃないか」
「でも断って下すったんでしょう」
「断ったんだとも。この間行った時に、宗近の
「それは覚えていますけれども、何だか
「判然しないのは向の事さ。阿爺があの通り気の長い人だもんだから」
「こっちでも判然とは断わらなかったんでしょう」
「そりゃ今までの義理があるから、そう子供の使のように、藤尾が
「なに厭なものは、どうしたって好くなりっこ無いんだから、いっそ平ったく云った方が好いんですよ」
「だって、世間はそうしたもんじゃあるまい。御前はまだ年が若いから
「何とか云って断ったのね」
「欽吾がどうあっても嫁を
「年を取って心細いから」
「心細いから、
「それじゃ兄さんがもしや御嫁を貰うと云い出したら困るでしょう」
「なに大丈夫だよ」と母は浅黒い額へ
「貰うなら、貰うで、
「でも宗近の方は」
「いいよ。そう心配しないでも」と
「外交官の試験に及第しないうちは嫁どころじゃないやね」と付けた。
「もし及第したら、すぐ何か云うでしょう」
「だって、
「そう云ったの」
「そうは云わないさ。そうは云わないが、云っても大丈夫、及第出来っ子ない男だあね」
藤尾は笑ながら、首を傾けた。やがてすっきと姿勢を正して、話を切り上げながら云う。
「じゃ宗近の
「思ってるはずだがね。――どうだい、あれから一の様子は、少しは変ったかい」
「やっぱり
「博覧会へ行ったのは、いつだったかね」
「今日で」と考える。「
「そんなら、もう一に通じている時分だが。――もっとも宗近の御叔父がああ云う人だから、ことに依ると
「それとも一さんの事だから、御叔父から聞いても平気でいるのかも知れないわね」
「そうさ。どっちがどっちとも云えないね。じゃ、こうしよう。ともかくも欽吾に話してしまおう。――こっちで黙っていちゃ、いつまで立っても際限がない」
「今、書斎にいるでしょう」
母は立ち上がった。
「御前、一に
「逢うかも知れません」
「逢ったら少し匂わして置く方が好いよ。小野さんと大森へ行くとか云っていたじゃないか。
「ええ、明日の約束です」
「何なら二人で遊んで歩くところでも見せてやると好い」
「ホホホホ」
母は書斎に向う。
からりとした
「暗い事」と云いながら、母は真中の
「陰気だねえ」と母は立ちながら繰り返す。
無言の人は立ち上る。上靴を二三度床に鳴らして、洋卓の角まで足を運ばした時、始めて
「窓を明けましょうか」と
「どうでも――
無言の人は再び右の手の平を、洋卓越に前へ出した。
「どうだね、具合は」
「ありがとう」
「ちっとは好い方かね」
「ええ――まあ――」と
「
句の切れぬうちに、甲野さんは自分の
「身体が悪いと、つい気分まで欝陶しくなって、自分も面白くないし……」
甲野さんはふと眼を上げた。母は急に言葉を移す。
「でも京都へ行ってから、少しは好いようだね」
「そうですか」
「ホホホホ、そうですかって、
「そうかも知れない」と甲野さんは、首を向け直して、窓の方を見る。窓掛の深い
「ちっと、日本間の方へ話にでも来て御覧。あっちは、
「ありがとう」
「どうせ相手になるほどの話は出来ないけれども――それでも馬鹿は馬鹿なりにね。……」
甲野さんは
「扇骨木が大変
「見事だね。かえって
「あなたの部屋からが一番好く見えるようですね」
「ああ、御覧かい」
甲野さんは見たとも見ないとも云わなかった。母は云う。――
「それにね。近頃は陽気のせいか池の
「鯉の跳る音がですか」
「ああ」
「いいえ」
「聞えない。聞えないだろうねこう立て切って有っちゃあ。
「藤尾はいますか」
「いるよ。もう小野さんが来て
「いえ、用は別にありません」
「あれも、あんな、気の勝った子で、さぞ御前さんの気に
甲野さんは腕組のまま、じっと、深い
「世話はする気です」と
「御前がそう云ってくれると
「する気どころじゃない。したいと思っているくらいです」
「それほどに思ってくれると聞いたら当人もさぞ喜ぶ事だろう」
「ですが……」で言葉は切れた。母は
「ですが、
「そんな事が」と今度は母の方が
「世話をすると云うのは、世話になる方でこっちを信仰――信仰と云うのは神さまのようでおかしい」
甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を
「
「だって
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と
「そんな事があっては第一
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を
「もし不都合があったら、私から
額に加えた五本の指は、節長に
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
右の
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、
甲野さんは手の甲の影で
「
「そりゃ、有るでしょう」
「だからさ。御前も、もう一遍考え直して御覧な。中には御嫁を貰って大変丈夫になった人もあるくらいだよ」
甲野さんの手はこの時始めて額を離れた。
母は額の裏側だけに八の字を寄せて、甲野さんの返事をおとなしく待っている。甲野さんは鉛筆を
「どうだろうね」
烏と云う字が鳥になった。
「そうしてくれると好いがね」
鳥と云う字が
「まあ藤尾の方からきめたら好いでしょう」
「御前が、どうしても承知してくれなければ、そうするよりほかに道はあるまい」
云い終った母は
「
「それじゃ御前……」と
「財産も藤尾にやります。
「それじゃ私達が困るばかりだあね」
「困りますか」と落ちついて云った。
「困りますかって。――私が、死んだ
「そうですか。じゃどうすれば好いんです」と
「どうすれば好いか、どうせ
「
「厭だなんて、そんなもったいない事を今まで云った事があったかね」
「有りません」
「
「御礼は始終聞いています」
母は転がった鉛筆を取り上げて、
「じゃ、どうあっても
「家は襲いでいます。法律上私は相続人です」
「甲野の家は襲いでも、
甲野さんは返事をする前に、
「だから、家も財産もみんな藤尾にやると云うんです」と
「それほどに御云いなら、仕方がない」
母は溜息と共に、この一句を洋卓の上にうちやった。甲野さんは超然としている。
「じゃ仕方がないから、御前の事は御前の思い通りにするとして、――藤尾の方だがね」
「ええ」
「実はあの小野さんが好かろうと思うんだが、どうだろう」
「小野をですか」と云ったぎり、黙った。
「いけまいか」
「いけない事もないでしょう」と
「よければ、そうきめようと思うが……」
「好いでしょう」
「好いかい」
「ええ」
「それでようやく安心した」
甲野さんはじっと眼を
「それでようやく――御前どうかおしかい」
「
「無論知っているよ。なぜ」
甲野さんは、やはり遠方を見ている。やがて
「宗近はいけないんですか」と聞く。
「
「約束でもありゃしなかったですか」
「約束と云うほどの事はなかったよ」
「何だか
「時計?」と母は首を
「父さんの金時計です。
「ああ、そうそう。そんな事が有ったようだね」と母は思い出したごとくに云う。
「
「そうかい」と云ったぎり母は澄ましている。
「約束があるならやらなくっちゃ悪い。義理が欠ける」
「時計は今藤尾が
「時計もだが、藤尾の事を
「だって藤尾をやろうと云う約束はまるで無いんだよ」
「そうですか。――それじゃ、好いでしょう」
「そう云うと私が何だか御前の気に
「はああ。じゃ無いんでしょう」
「そりゃね。約束があっても無くっても、一ならやっても好いんだが、あれも外交官の試験がまだ済まないんだから勉強中に嫁でもあるまいし」
「そりゃ、構わないです」
「それに一は長男だから、どうしても宗近の家を
「藤尾へは養子をするつもりなんですか」
「したくはないが、御前が
「藤尾がわきへ行くにしても、財産は藤尾にやります」
「財産は――御前私の
「見えます」と甲野さんが云った。
「ただ年を取って心細いから……たった一人の藤尾をやってしまうと、
「なるほど」
「でなければ一が好いんだがね。御前とも仲が善し……」
「母かさん、小野をよく知っていますか」
「知ってるつもりです。
「そんなら好いです」
「そう
しばらく
「宗近の方が小野より
「そりゃ」とたちまち出る。
「そうかも知れない――御前の見た眼に間違はあるまいが、ほかの事と違って、こればかりは親や兄の自由には
「藤尾が是非にと云うんですか」
「え、まあ――是非とも云うまいが」
「そりゃ
「呼びましょう」
母は立った。
「藤尾に用があるからちょいと」と云う。そっと明いた戸はそっと締る。
母と子は
二人の心は無論わからぬ。ただ
丹念に引く線はようやく
「
「出て?」と母に聞く。母はただ藤尾の方を意味ありげに見たのみである。甲野さんの黒い線はこの間に四本増した。
「兄さんが御前に何か御用があると御云いだから」
「そう」と云ったなり、藤尾は兄の方へ向き直った。黒い線がしきりに出来つつある。
「兄さん、何か御用」
「うん」と云った甲野さんは、ようやく顔を上げた。顔を上げたなり何とも云わない。
藤尾は再び母の方を見た。見ると共に
「藤尾、この
「いつ」
「今日からやる。――その代り、
「ありがとう」と云いながら、また母の方を見る。やはり笑っている。
「御前宗近へ行く気はないか」
「ええ」
「ない? どうしても
「厭です」
「そうか。――そんなに小野が好いのか」
藤尾は
「それを聞いて何になさる」と
「何にもしない。私のためには何にもならない事だ。ただ御前のために云ってやるのだ」
「私のために?」と言葉の尻を上げて置いて、
「そう」とさも
「兄さんの考では、小野さんより
「兄さんは兄さん。私は私です」
「兄さんは小野さんよりも一の方が、母さんを大事にしてくれると御言いのだよ」
「兄さん」と藤尾は鋭く欽吾に向った。「あなた小野さんの性格を知っていらっしゃるか」
「知っている」と
「知ってるもんですか」と立ち上がる。「小野さんは詩人です。高尚な詩人です」
「そうか」
「趣味を解した人です。愛を解した人です。温厚の君子です。――哲学者には分らない人格です。あなたには一さんは分るでしょう。しかし小野さんの
「じゃ小野にするさ」
「無論します」
云い
十六
叙述の筆は
相変らずの
宗近の
ところへ入口の
「どこぞへ行くかね」
「行くんじゃない、今帰ったところです。――ああ暑い。今日はよっぽど暑いですね」
「
「充分落ちついているつもりなんだが、そう見えないかな。弱るな。――やあ、とうとう煙草盆へ火を入れましたね。なるほど」
「どうだ祥瑞は」
「何だか
「なに煙草盆さ。御前達が何だかだって笑うが、こうやって灰を入れて見るとやっぱり煙草盆らしいだろう」
老人は
「どうだ」
「ええ。好いですね」
「好いだろう。祥瑞は
「全体いくらなんですか」
「いくらだか当てて御覧」
「見当が着きませんね。
「壱円八十銭だ。安いもんだろう」
「安いですかね」
「全く
「へええ――おや椽側にもまた新らしい植木が出来ましたね」
「さっき
「十六世紀頃の
「それは
「仏見笑? 妙な名だな」
「
「文句だけは知ってます」
「それで仏見笑と云うんだそうだ。花は奇麗だが、大変
「なに触らなくっても結構です」
「ハハハハ外面如菩薩、内心如夜叉。女は危ないものだ」と云いながら、老人は
「むずかしい薔薇があるもんだな」と宗近君は感心して仏見笑を
「うん」と老人は思い出したように膝を打つ。
「
老人はいながら、顔の向を
茶がかった
「大変細い花ですね。――見た事がない。何と云うんですか」
「これが例の
「例の二人静? 例にも何にも今まで聞いた事がないですね」
「覚えて置くがいい。面白い花だ。白い穂がきっと二本ずつ出る。だから二人静。謡曲に静の霊が二人して舞うと云う事がある。知っているかね」
「知りませんね」
「二人静。ハハハハ面白い花だ」
「何だか
「調べさえすれば因果はいくらでもある。御前、梅に
「
「頭を」と云いながら
「あんまり
「奇麗にもならんじゃないかって、
「じゃ何刈だい」
「分けるんです」
「分かっていないじゃないか」
「今に分かるようになるんです。真中が少し長いでしょう」
「そう云えば心持長いかな。
「見っともないですか」
「それにこれから夏向は熱苦しくって……」
「ところがいくら熱苦しくっても、こうして置かないと不都合なんです」
「なぜ」
「なぜでも不都合なんです」
「妙な奴だな」
「ハハハハ実はね、阿爺さん」
「うん」
「外交官の試験に及第してね」
「及第したか。そりゃそりゃ。そうか。そんなら早くそう云えば好いのに」
「まあ頭でも
「頭なんぞはどうでも好いさ」
「ところが五分刈で外国へ行くと懲役人と間違えられるって云いますからね」
「外国へ――外国へ行くのかい。いつ」
「まあこの髪が延びて小野清三式になる時分でしょう」
「じゃ、まだ一ヵ月くらいはあるな」
「ええ、そのくらいはあります」
「一ヵ月あるならまあ安心だ。立つ前にゆっくり相談も出来るから」
「ええ時間はいくらでもあります。時間の方はいくらでもありますが、この洋服は
「ハハハハいかんかい。よく似合うぜ」
「あなたが似合う似合うとおっしゃるから今日まで着たようなものの――至るところだぶだぶしていますぜ」
「そうかそれじゃ
「ハハハハ驚いたなあ。それこそ
「廃しても好い。黒田にでもやるかな」
「黒田こそいい迷惑だ」
「そんなにおかしいかな」
「おかしかないが、
「そうか、それじゃやっぱりおかしいだろう」
「ええ、つまるところおかしいです」
「ハハハハ時に糸にも話したかい」
「試験の事ですか」
「ああ」
「まだ話さないです」
「まだ話さない。なぜ。――全体いつ分ったんだ」
「通知のあったのは二三日前ですがね。つい、忙しいもんだから、まだ誰にも話さない」
「御前は
「なに忘れやしません。大丈夫」
「ハハハハ忘れちゃ大変だ。まあもう、ちっと気をつけるがいい」
「ええこれから糸公に話してやろうと思ってね。――心配しているから。――及第の件とそれからこの頭の説明を」
「頭は好いが――全体どこへ行く事になったのかい。
「その辺はまだ分らないです。何でも西洋は西洋でしょう」
「ハハハハ気楽なもんだ。まあどこへでも行くが好い」
「西洋なんか行きたくもないんだけれども――まあ順序だから仕方がない」
「うん、まあ勝手な所へ行くがいい」
「支那や朝鮮なら、
「西洋はやかましい。御前のような
「ハハハハ西洋へ行くと堕落するだろうと思ってね」
「なぜ」
「西洋へ行くと人間を
「二た通とは」
「
「日本でもそうじゃないか。文明の圧迫が
「その代り生存競争も烈しくなるから、内部はますます不作法になりまさあ」
「ちょうどなんだな。裏と表と反対の方角に発達する訳になるな。これからの人間は生きながら
「今に人間が進化すると、神様の顔へ豚の
「いっそ
「ことに
「だが英国紳士と云って近頃だいぶ評判がいいじゃないか」
「日英同盟だって、何もあんなに
「うん。どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだろうからな。――なに国ばかりじゃない個人でもそうだ」
「日本がえらくなって、英国の方で日本の真似でもするようでなくっちゃ駄目だ」
「御前が日本をえらくするさ。ハハハハ」
宗近君は日本をえらくするとも、しないとも云わなかった。ふと手を
「どうも、この
「じゃ糸にちょっと話しましょう」と立ちかける。
「まあ御待ち、少し相談がある」
「何ですか」と立ち掛けた尻を
「実は今までは、御前の位地もまだきまっていなかったから、さほどにも云わなかったが……」
「嫁ですかね」
「そうさ。どうせ外国へ行くなら、行く前にきめるとか、結婚するとか、または連れて行くとか……」
「とても連れちゃ行かれませんよ。金が足りないから」
「連れて行かんでも好い。ちゃんと片をつけて、そうして置いて行くなら。留守中は
「
「どうだなそこで。気に入った婦人でもあるかな」
「甲野の妹を貰うつもりなんですがね。どうでしょう」
「
「駄目ですかね」
「なに駄目じゃない」
「外交官の女房にゃ、ああ云うんでないといけないです」
「そこでだて。実は甲野の
「叔父さんは時計をやると云いました」
「あの金時計かい。藤尾が
「ええ、あの太古の時計です」
「ハハハハあれで針が回るかな。時計はそれとして、実は
「はあ、何とか云いましたか」
「まことに好い御縁だが、まだ御身分がきまって
「身分がきまらないと云うのは外交官の試験に及第しないと云う意味ですかね」
「まあ、そうだろう」
「だろうはちっと驚ろいたな」
「いや、あの女の云う事は、非常に能弁な代りによく意味が通じないで困る。
多少
「だけれども断ったんだか、断らないんだか分らないのは
「厄介だよ。あの女にかかると今までも随分厄介な事がだいぶあった。
「ハハハハそりゃ好いが――ついに談判は発展しずにしまったんですか」
「つまり先方の云うところでは、御前が外交官の試験に及第したらやってもいいと云うんだ」
「じゃ訳ない。この通り及第したんだから」
「ところがまだあるんだ。面倒な事が。まことにどうも」と云いながら
「及第しても駄目なんですか」
「駄目じゃあるまいが――
「馬鹿な」
「もし出られてしまうと、年寄の世話の仕手がなくなる。だから藤尾に養子をしなければならない。すると宗近へでも、どこへでも嫁にやる訳には行かなくなると、まあこう云うんだな」
「下らない事を云うもんですね。第一甲野が
「家を出るって、まさか坊主になる
「甲野が神経衰弱だから、そんな
「そうなっては大変だと云って心配しているのさ」
「そんなら藤尾さんを嫁にやっても好さそうなものじゃありませんか」
「好い。好いが、万一の事を考えると私も心細くってたまらないと云うのさ」
「何が何だか分りゃしない。まるで
「本当に――要領を得ないにも困り切る」
「元来そりゃいつの事です」
「この間だ。今日で一週間にもなるかな」
「ハハハハ
「ハハハだが要領を得ないからね」
「要領はたしかに得ませんね。早速要領を得るようにして来ます」
「どうして」
「まず甲野に妻帯の件を説諭して、坊主にならないようにしてしまって、それから藤尾さんをくれるかくれないか
「御前一人でやる気かね」
「ええ、一人でたくさんです。卒業してから何にもしないから、せめてこんな事でもしなくっちゃ退屈でいけない」
「うん、自分の事を自分で片づけるのは結構な事だ。一つやって見るが好い」
「それでね。もし甲野が
「それは好い。構わない」
「
「聞かんでも好かろう」
「だって、そりゃ聞かなくっちゃいけませんよ。ほかの事とは違うから」
「そんなら聞いて見るが好い。ここへ呼ぼうか」
「ハハハハ親と兄の前で詰問しちゃなおいけない。これから私が聞いて見ます。で当人が好いと云ったら、そのつもりで甲野に話しますからね」
「うん、よかろう」
宗近君はずんど
とんとんと二段踏むと妹の
「今日は勉強だね。珍らしい。何だい」といきなり机の横へ坐り込む。
「何でもありませんよ」
「何でもない本を読むなんて、天下の逸民だね」
「どうせ、そうよ」
「手を放したって好いじゃないか。まるで散らしでも取ったようだ」
「散らしでも何でも好くってよ。
「大変邪魔にするね。糸公、
「何て」
「糸はちっと女大学でも読めば好いのに、近頃は恋愛小説ばかり読んでて、まことに困るって」
「あら
「兄さんは知らないよ。
「嘘よ、
「そうかい。だって、人が来ると読み掛けた本を伏せて、
「嘘ですよ。嘘だって云うのに、あなたもよっぽど卑劣な方ね」
「卑劣は一大痛棒だね。注意人物の
「だって人の云う事を信用なさらないんですもの。そんなら証拠を見せて上げましょうか。ね。待っていらっしゃいよ」
糸子は抑えた本を
「
「まあ黙って、待っていらっしゃい」
糸子は兄の眼を
「ほら」と上へ出す。
両手で
「
「分ったでしょう」
「借りたのかい」
「ええ。恋愛小説じゃないでしょう」
「種を見せない以上は何とも云えないが、まあ勘弁してやろう。時に糸公御前今年
「当てて御覧なさい」
「当てて見ないだって区役所へ行きゃ、すぐ分る事だが、ちょいと参考のために聞いて見るんだよ。隠さずに云う方が御前の利益だ」
「隠さずに云う方がだって――何だか悪い事でもしたようね。
「ハハハハさすが哲学者の御弟子だけあって、容易に権威に服従しないところが感心だ。じゃ改めて伺うが、取って
「そんな
「困ったな。
「おおかたそんなところでしょう」
「判然しないのか。自分の年が判然しないようじゃ、兄さんも少々心細いな。とにかく十代じゃないね」
「余計な御世話じゃありませんか。人の
「なに別の用でもないが、実は糸公を御嫁にやろうと思ってさ」
冗談半分に相手になって、
「どうだい、御嫁は。
「知らないわ」と低い声で云う。やっぱり下を向いたままである。
「知らなくっちゃ困るね。兄さんが行くんじゃない、御前が行くんだ」
「行くって云いもしないのに」
「じゃ行かないのか」
糸子は
「行かない? 本当に」
答はなかった。今度は首さえ動かさない。
「行かないとなると、兄さんが切腹しなけりゃならない。大変だ」
「笑い事じゃない。本当に腹を切るよ。好いかね」
「勝手に御切んなさい」と突然顔を上げた。にこにこと笑う。
「切るのは好いが、あんまり深刻だからね。なろう事ならこのまんまで生きている方が、御互に便利じゃないか。御前だってたった一人の兄さんに腹を切らしたって、つまらないだろう」
「誰もつまると云やしないわ」
「だから兄さんを助けると思ってうんと御云い」
「だって訳も話さないで、
「訳は
「好くってよ、訳なんか聞かなくっても、私御嫁なんかに行かないんだから」
「糸公御前の返事は
「何ですって」
「なに、何でもいい、法律上の術語だから――それでね、糸公、いつまで行っても
「訳は聞いても御嫁にゃ行かなくってよ」
「条件つきに聞くつもりか。なかなか
「まだ」
「まだって
「だけれど、藤尾さんは
「御前この間もそんな事を云ったね」
「ええ、だって、
「そりゃ大いにごもっともだ。厭なものを
「いっそそうなすった方がいいでしょう」
「だがその辺が判然しないからね」
「だから判然させるの。まあ」と内気な妹は少し驚いたように眼を机の上に転じた。
「この間甲野の
「それで」
「だから好いじゃないか、兄さんがちゃんと外交官の試験に及第したんだから」
「おや、いつ」
「いつって、ちゃんと及第しちまったんだよ」
「あら、本当なの、驚ろいた」
「兄が及第して驚ろく奴があるもんか。失礼千万な」
「だって、そんなら早くそうおっしゃれば好いのに。これでもだいぶ心配して上げたんだわ」
「全く御前の
兄妹は
笑い切った時、兄が云う。
「そこで兄さんもこの通り頭を刈って、
「それほど御気に入ったら藤尾さんになさい。――女を見るのはやっぱり女の方が上手ね」
「そりゃ才媛糸公の意見に間違はなかろうから、充分兄さんも参考にはするつもりだが、とにかく判然談判をきめて来なくっちゃいけない。向うだって
糸子は
「云うかね」
「どうですか。聞いて御覧なさらなくっちゃ――しかし聞くなら欽吾さんに御聞きなさいよ。恥を
「ハハハハ厭なら
「だって」
「……ないが甲野に聞くよ。聞く事は甲野に聞くが――そこに問題がある」
「どんな」
「先決問題がある。――先決問題だよ、糸公」
「だから、どんなって、聞いてるじゃありませんか」
「ほかでもないが、甲野が坊主になるって騒ぎなんだよ」
「馬鹿をおっしゃい。
「なに、今の世に坊主になるくらいな決心があるなら、縁喜はともかく、
「
「何とも云えない。近頃のように
「じゃ、兄さんからなって御覧なさいよ」
「酔興にかい」
「酔興でも何でもいいから」
「だって
「じゃ欽吾さんもならないだって好いじゃありませんか」
「そうさ、何だか
「兄さんのおっしゃる事はどこまでが
「こう云うんでないと外交官には向かないとさ」
「人を……それで欽吾さんがどうなすったんですよ。本当のところ」
「本当のところ、甲野がね。
「なぜでしょう」
「つまり、病身で
「そう、御気の毒ね。ああ云う方は御金も家もいらないでしょう。そうなさる方が好いかも知れないわ」
「そう御前まで賛成しちゃ、先決問題が解決しにくくなる」
「だって御金が山のようにあったって、欽吾さんには何にもならないでしょう。それよりか藤尾さんに上げる方が
「御前は女に似合わず気前が好いね。もっとも人のものだけれども」
「私だって御金なんかいりませんわ。邪魔になるばかりですもの」
「邪魔にするほどないからたしかだ。ハハハハ。しかしその心掛は感心だ。尼になれるよ」
「おお
「そこだけは兄さんも賛成だ。しかし自分の財産を棄てて
「じゃ兄さんが藤尾さんを貰うために、欽吾さんを留めようと云うんですね」
「まあ一面から云えばそうなるさ」
「それじゃ欽吾さんより兄さんの方がわがままじゃありませんか」
「今度は非常に
「だって
「厭だなんて云うのは神経衰弱のせいだあね」
「神経衰弱じゃありませんよ」
「病的に違ないじゃないか」
「病気じゃありません」
「糸公、今日は例に似ず大いに
「だって欽吾さんは、ああ云う方なんですもの。それを
「しかし健全じゃないよ。そんな動議を呈出するのは」
「自分のものを自分が
「そりゃごもっともだがね……」
「
「要らないって……」
「本当に要らないんですよ、甲野さんのは。
「糸公、御前は甲野の
「知己でも知己でなくっても、本当のところを云うんです。正しい事を云うんです。叔母さんや藤尾さんがそうでないと云うんなら、叔母さんや藤尾さんの方が間違ってるんです。私は嘘を
「感心だ。学問がなくっても誠から出た自信があるから感心だ。兄さん大賛成だ。それでね、糸公、改めて相談するが甲野が
「それは話がまるで違いますわ。今云ったのはただ正直なところを云っただけですもの。欽吾さんに御気の毒だから云ったんです」
「よろしい。なかなか訳が分っている。妹ながら見上げたもんだ。だから別問題として聞くんだよ。どうだね
「厭だって……」とと言い
「糸公、どうしたんだ。今日は天候
答のない口元が結んだまましゃくんで、見るうちにまた
「さあ、御拭き」と云いながら糸子の胸の先へ押し付ける。妹は作りつけの人形のようにじっとして動かない。宗近君は右の手に手巾を差し出したまま、少し及び腰になって、下から妹の顔を
「糸公
糸子は無言のまま首を
「じゃ、行く気だね」
今度は首が動かない。
宗近君は手巾を妹の膝の上に落したまま、
「泣いちゃいけないよ」と云って糸子の顔を見守っている。しばらくは双方共言葉が途切れた。
糸子はようやく手巾を取上げる。
「私は御嫁には行きません」と云う。
「御嫁には行かない」とほとんど無意味に繰り返した宗近君は、たちまち勢をつけて
「冗談云っちゃいけない。今厭じゃないと云ったばかりじゃないか」
「でも、欽吾さんは御嫁を御貰いなさりゃしませんもの」
「そりゃ聞いて見なけりゃ――だから兄さんが聞きに行くんだよ」
「聞くのは
「なぜ」
「なぜでも廃してちょうだい」
「じゃしようがない」
「しようがなくっても好いから廃してちょうだい。私は今のままでちっとも不足はありません。これで好いんです。御嫁に行くとかえっていけません」
「困ったな、いつの
「そりゃ分っていますわ」
「そこが分りさえすれば、
「御嫁に行ったら人間が悪くなるもんでしょうか」
「ハハハハ突然大問題を呈出するね。なぜ」
「なぜでも――もし悪くなると
「阿父様と兄さんと――そりゃ阿父様も兄さんもいつまでも御前といっしょにいたい事はいたいがね。なあ糸公、そこが問題だ。御嫁に行ってますます人間が上等になって、そうして御亭主に可愛がられれば好いじゃないか。――それよりか実際問題が肝要だ。そこでね、さっきの話だが兄さんが受合ったら好いだろう」
「何を」
「甲野に聞くのは厭だと、と云って甲野の方から御前を貰いに来るのはいつの事だか分らずと……」
「いつまで待ったって、そんな事があるものですか。私には欽吾さんの胸の中がちゃんと分っています」
「だからさ、兄さんが受合うんだよ。是非甲野にうんと云わせるんだよ」
「だって……」
「何云わせて見せる。兄さんが責任をもって受合うよ。なあに大丈夫だよ。兄さんもこの頭が延びしだい外国へ行かなくっちゃならない。すると当分糸公にも
糸子は何とも答えなかった。下で
「そら始まった――じゃ行って来るよ」と宗近君は
十七
小野と浅井は橋まで来た。来た路は青麦の中から出る。行く路は青麦のなかに入る。一筋を前後に余して、深い谷の底を
「いい景色だね」
「うん、ええ景色じゃ」
二人は欄に
「久しぶりで郊外へ来て好い心持だ」
「たまには、こう云う所も
「君はそうだろう。君をこんな所へ連れて来たのは少し気の毒だったね」
「なに構わん。どうせ
「金儲は僕の方にゃないが、君の方にゃたくさんあるだろう」
「いや近頃は法科もつまらん。文科と同じこっちゃ、銀時計でなくちゃ通用せん」
小野さんは橋の
「一本どうだね」
「や、ありがとう。大変立派なものを持っとるの」
「貰い物だ」と小野さんは、自分も一本抜き取った後で、また見えない所へ投げ込んだ。
二人の煙はつつがなく立ち
「君は
「ハハハハこっちが借りたいくらいだ」
「なにそんな事があるものか。少し貸せ。僕は今度国へ行ったんで大変
本気に云っているらしい。小野さんの煙草の煙がふうと横に走った。
「どのくらい
「三十円でも二十円でも
「そんなにあるものか」
「じゃ十円でも好え。五円でも好え」
浅井君はいくらでも下げる。小野さんは
「十円くらいなら都合が出来ない事もないが――いつ
「今月
「今月末でも、いつでも好い。――その代り少し御願がある。聞いてくれるかい」
「うん、話して見い」
浅井君は容易に受合った。同時に頬杖をやめて背を立てる。二人の顔はすれすれに来た。
「実は井上先生の事だがね」
「おお、先生はどうしとるか。帰ってから、まだ尋ねる
浅井君はハハハハと高く笑った。ついでに欄干から胸をつき出して、
「その御嬢さんの事なんだが……」
「いよいよ結婚するか」
「君は気が早くっていけない。そう先へ云っちまっちゃあ……」と言葉を切って、しばらく麦畑を眺めていたが、たちまち手に持った吸殻を
「もったいない事をするのう」と浅井君が云った。
「君本当に僕の云う事を聞いてくれるのかい」
「本当に聞いとる。それから」
「それからって、まだ何にも話しゃしないじゃないか。――金の工面はどうでもするが、君に折入って御願があるんだよ」
「だから話せ。京都からの知己じゃ。何でもしてやるぞ」
調子はだいぶ熱心である。小野さんは
「君ならやってくれるだろうと思って、実は君の帰るのを待っていたところだ」
「そりゃ、
「そんな事じゃない」
「しかし、そう云う条件を付けて置く方が君の将来のために
「そりゃ
「貰う事は貰うつもりじゃろう。みんな、そう思うとるぞ」
「誰が」
「誰がてて、我々が」
「そりゃ困る。僕が井上の御嬢さんを貰うなんて、――そんな堅い約束はないんだからね」
「そうか。――いや怪しいぞ」と浅井君が云った。小野さんは腹の中で下等な男だと思う。こんな男だから破談を平気に持ち込む事が出来るんだと思う。
「そう頭から冷やかしちゃ話が出来ない」と
「ハハハハ。そう
「まあ少し待ってくれたまえ。修業中なんだから」
「ちと
「何分
「などと云って、裏では
「まさか」
「いやそうでないぞ。近頃だいぶ
浅井君はここに至って指の股に
「まあ歩きながら話そう」
悪洒落の続きを切るために、小野さんは一歩橋の
「暑いのう」と浅井君は
「暑い」と待ち合わした小野さんは、肩の並んだ時、歩き出す。歩き出しながら
「さっきの話だが――実は二三日前井上先生の所へ行ったところが、先生から突然例の縁談一条を持ち出されて、ね。……」
「待ってましたじゃ」と受けた浅井君はまた何か云いそうだから、小野さんは談話の速力を増して、急に進行してしまう。――
「先生が随分はげしく来たので、僕もそう世話になった先生の感情を害する訳にも行かないから、熟考するために二三日の余裕を与えて貰って帰ったんだがね」
「そりゃ慎重の……」
「まあしまいまで聞いてくれたまえ。批評はあとで
「そりゃ悪い」
「悪いが、ほかの事と違って結婚問題は
「そりゃいかない」
小野さんは、相手の顔をじろりと見た。相手は存外真面目である。話は進行する。――
「それも僕に判然たる約束をしたとか、あるいは御嬢さんに対して済まん関係でも
「うん潔白だ。君ほど高尚で潔白な人間はない。僕が保証する」
小野さんはまたじろりと浅井君の顔を見た。浅井君はいっこう気が着かない。話はまた進行する。――
「ところが先生の方では、頭から僕にそれだけの責任があるかのごとく
「うん」
「まさか根本に立ち返って、あなたの御考は出立点が間違っていますと
「そりゃ、あまり君が人が好過ぎるからじゃ。もう少し世の中に
「損は僕も知ってるんだが、どうも僕の性質として、そう
「そう、相手が世話になった先生じゃからな」
「それに僕の方から云うと、今ちょうど博士論文を書きかけている最中だから、そんな話を持ち込まれると余計困るんだ」
「博士論文をまだ書いとるか、えらいもんじゃな」
「えらい事もない」
「なにえらい。銀時計の頭でなくちゃ、とても出来ん」
「そりゃどうでも
「そうか、訳ない。僕が先生に
浅井君は茶漬を
「その代り先生の世話は
「君は感心な男だ。先生が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「よく僕の意志が徹するように云ってくれたまえ。誤解が出来るとまた
「よし。感情を害せんようにの。よう云うてやる。その代り十円貸すんぜ」
「貸すよ」と小野さんは笑ながら答えた。
ただ破談を申し込むのと、破談を申し込みながら、申し込んだ後を奇麗に片づけるのとは別才である。落葉を振うものは必ずしも庭を
それほどの事を知らぬ小野さんではない。知って依頼するのはただ破談を申し込めばそれで構わんと
こう思い定めている小野さんは、浅井君が快よく依頼に応じた時、まず
「こう日が照ると、麦の
「
「時に君はやはりあのハムレットの
「
「この間京都へ行ったそうじゃな。もう帰ったか。ちと麦の
「そうさね」
「ああ云う人間は早く死んでくれる方が
「あるようだね」
「あの親類の人はどうした。学校で時々顔を見たが」
「
「そうそう。あの男の所へ二三日
小野さんは突然留った。
「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
小野さんは眼を地面の上へ
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か
「そうか」
麦畑を折れると、杉の
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
小野さんははなはだ
四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の
「おい」
甲野さんは
おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、
「君か」と云う。
宗近君はつかつかと
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し
「こうすると大変陽気になる。ああ好い心持だ。庭の芝がだいぶ色づいて来た」
宗近君は再び洋卓まで戻って、始めて腰を
「何をしているね」
「うん?」と云って鉛筆の進行を留めた甲野さんは
「どうだ。なかなか
「何だこりゃ。恐ろしいたくさん書いたね」
「もう一時間以上書いている」
「僕が来なければ晩まで書いているんだろう。くだらない」
甲野さんは何とも云わなかった。
「これが哲学と何か関係でもあるのかい」
「有っても好い」
「万有世界の哲学的象徴とでも云うんだろう。よく一人の頭でこんなに並べられたもんだね。
甲野さんは今度も何とも云わなかった。
「何だか、どうも相変らずぐずぐずしているね。いつ見ても煮え切らない」
「今日は特別煮え切らない」
「天気のせいじゃないか、ハハハハ」
「天気のせいより、生きてるせいだよ」
「そうさね、煮え切ってぴんぴんしているものは
「いつまでも浮世の
甲野さんはここに至って始めて笑った。
「時に甲野さん、今日は報告かたがた少々談判に来たんだがね」
「むつかしい
「近いうち洋行をするよ」
「洋行を」
「うん
「行くのはいいが、
「なんとも云えないが、
甲野さんはハハハハと笑った。
「実は最近の好機において外交官の試験に及第したんだから、この通り早速頭を刈ってね、やっぱり、最近の好機において出掛けなくっちゃならない。塵事多忙だ。なかなか丸や三角を並べちゃいられない」
「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「
今度はいやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「
洋卓の
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
親譲りの背広を着た男は、丸い眼を
「父は死んでいる。しかし
椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、
しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「
立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」
席を立った宗近君は、横から来て甲野さんの手を取るや否や、明け放った
「いったいどうしたんだ」と宗近君が聞いた。
芝生は南に走る事十間余にして、
二人は
四尺の
不規則なる春の
女はちらりと白足袋の片方を
「ホホホホ一番あなたによく似合う事」
藤尾の
「藤……」と動き出そうとする宗近君の横腹を突かぬばかりに、甲野さんは前へ押した。宗近君の眼から活人画が消える。追いかぶさるように、
「黙って……」と小声に云いながら、
肩に手を掛けて押すように石段を
「何をするんだ」
「部屋を立て切った。人が
「なぜ」
「なぜでも好い」
「全体どうしたんだ。大変顔色が悪い」
「なに大丈夫。まあ掛けたまえ」と最前の椅子を机に近く引きずって来る。宗近君は小供のごとく命令に服した。甲野さんは相手を落ちつけた
「宗近さん」と壁を向いて呼んだが、やがて首だけぐるりと回して、正面から、
「藤尾は駄目だよ」と云う。落ちついた調子のうちに、何となく
「そうか」
腕を組んだ宗近君はこれだけ答えた。あとから、
「糸公もそう云った」と沈んでつけた。
「君より、君の妹の方が眼がある。藤尾は駄目だ。飛び上りものだ」
かちゃりと入口の
「うちやって置け」と冷やかに云う。
入口の扉に口を着けたようにホホホホと高く笑ったものがある。足音は日本間の方へ
「藤尾だ」と甲野さんが云う。
「そうか」と宗近君がまた答えた。
あとは静かになる。机の上の置時計がきちきちと鳴る。
「金時計も
「うん。廃そう」
甲野さんは首を壁に向けたまま、宗近君は腕を
「宗近さん」と
「うん黙っている」
「藤尾には君のような人格は解らない。
「この通り頭ができた」
宗近君は
甲野さんは眼尻に笑の波を、あるか、なきかに寄せて
「頭ができれば、藤尾なんぞは
宗近君は軽くうふんと云ったのみである。
「それでようやく安心した」と甲野さんは、くつろいだ片足を上げて、残る
「これからだ」と
「これからだ。僕もこれからだ」と甲野さんも独語のように答えた。
「君もこれからか。どうこれからなんだ」と宗近君は煙草の
「本来の無一物から出直すんだからこれからさ」
指の股に
「本来の無一物から出直すとは」と
「僕はこの
「やってしまった? いつ」
「もう少しさっき。その紋尽しを書いている時だ」
「そりゃ……」
「ちょうどその丸に
「やってしまうってそう
「何
「
「承知しない」
「承知しないものを……それじゃ御叔母さんが困るだろう」
「やらない方が困るんだ」
「だって御叔母さんは
「僕の母は
「そりゃ、あんまり……」
「君は本当の母でないから僕が
「しかし……」
「君は僕を信用しないか」
「無論信用するさ」
「僕の方が母より高いよ。賢いよ。
宗近君は黙っている。甲野さんは続けた。――
「母の家を出てくれるなと云うのは、出てくれと云う意味なんだ。財産を取れと云うのは寄こせと云う意味なんだ。世話をして貰いたいと云うのは、世話になるのが
宗近君は突然
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
宗近君はふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「
「厭じゃないが、仕方がない」
宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。
宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。
十八
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
小夜子は淋しい笑顔を
浅井君が無意味に小夜子を眺めているうちに、
「御薬はもう上がったんですか」
「朝の分はもう飲んだよ」
「御寒い事はござんせんか」
「寒くはないが、少し……」
先生は右の
「どうですか」と
「少し、早いようだ。やっぱり熱が
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が
「いえ、ちっと
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。
浅井君はつまらなくなる。早く用を片づけて帰ろうと思う。
「先生小野はいっこう駄目ですな、ハイカラにばかりなって。御嬢さんと結婚する気はないですよ」とぱたぱたと順序なく並べた。
孤堂先生の
「
置き
先生の
「小野は近頃非常なハイカラになりました。あんな所へ行くのは御嬢さんの損です」
苦々しい顔はとうとう持ち切れなくなった。
「君は小野の悪口を云いに来たのかね」
「ハハハハ先生本当ですよ」
浅井君は妙なところで高笑をいた。
「余計な御世話だ。軽薄な」と鋭どく
「おい験温器はまだか。何をぐずぐずしている」
次の間の返事は聞えなかった。ことりとも云わぬうちに、片寄せた
「何だって、そんな余計な事を云うんだ」と
「実は頼まれたんです」
「頼まれた? 誰に」
「小野に頼まれたんです」
「小野に頼まれた?」
先生は
「ああ云う男だものだから、自分で先生の所へ来て断わり切れないんです。それで僕に頼んだです」
「ふうん。もっと
「二三日
「だから、どう云う理由で断わるんだか、それを精しく話したら好いじゃないか」
「理由はですな。博士にならなければならないから、どうも結婚なんぞしておられないと云うんです」
「じゃ博士の称号の方が、小夜より大事だと云うんだね」
「そう云う訳でもないでしょうが、博士になって置かんと将来非常な不利益ですからな」
「よし分った。理由はそれぎりかい」
「それに確然たる契約のない事だからと云うんです」
「契約とは法律上有効の契約という意味だな。証文のやりとりの事だね」
「証文でもないですが――その代り長い間御世話になったから、その御礼としては物質的の補助をしたいと云うんです」
「月々金でもくれると云うのかい」
「そうです」
「おい小夜や、ちょっと
小夜子は
「君は妻君があるかい」
「ないです。貰いたいが、自分の口が大事ですからな」
「妻君がなければ参考のために聞いて置くがいい。――人の娘は
小夜子は襖の蔭で
こう怒られようとは思わなかった。またこう怒られる訳がない。自分の云う事は事理明白である。世間に立って成功するには誰の目にも博士号は大切である。
「先生そう怒っちゃ困ります。悪ければまた小野に
しばらく黙っていた先生は、やや落ちついた調子で、
「君は結婚を
先生の云う主意は分らんが、先生の様子にはさすがの浅井君も少し心を動かした。しかし結婚は
「君は女の心を知らないから、そんな使に来たんだろう」
浅井君はやっぱり黙っている。
「人情を知らないから平気でそんな事を云うんだろう。小野の方が破談になれば小夜は
先生の
「じゃ、まあ御待ちなさい、先生。もう一遍小野に話して見ますから。僕はただ頼まれたから来たんで、そんな
「いや、話してくれないでも好い。
「しかし御嬢さんが、そう云う御考だと……」
「小夜の
「ですがな、それだと小野も困るでしょうから、もう一遍……」
「小野にそう云ってくれ。井上孤堂はいくら娘が可愛くっても、厭だと云う人に頭を下げて貰ってもらうような卑劣な男ではないって。――小夜や、おい、いないか」
「そう返事をして
答はさらになかった。ややあって、わっと云う顔を袖の中に
「先生もう一遍小野に話しましょう」
「話さないでも好い。自家に来て断われと云ってくれ」
「とにかく……そう小野に云いましょう」
浅井君はついに立った。玄関まで送って来た先生に頭を下げた時、先生は
「娘なんぞ持つもんじゃないな」と云った。表へ出た浅井君はほっと息をつく。今までこんな感じを経験した事はない。横町を出て
突然電車に乗った浅井君は約一時間
宗近君の車が、小野さんの下宿の前で、
想像力に富んでおればこそ、自分で断わりに行く気になれなかった。先生の顔と小夜子の顔と、部屋の模様と、暮しの有様とを
血を描く。
想像のとまった時、急に約束を思い出す。約束の履行から出る
「やっぱり行く事にするか。
煙草の煙が、未来の影を
いつの
「だいぶ
「どうだい」と部屋の真中に腰を
「どうも失敬です」と主人は恐縮の
心を二六時に
約束は履行すべきものときまっている。しかし履行すべき条件を奪ったものは自分ではない。自分から進んで違約したのと、邪魔が降って来て、守る事が出来なかったのとは心持が違う。約束が
小野さんはむしろ好意をもって宗近君を迎えた。しかしこの一点の好意は、不幸にして面白からぬ感情のために四方から深く
宗近君と藤尾とは遠い縁続である。自分が藤尾を
ただの親類ならまだしもである。
秘密の雲は、春を射る金鎖の稲妻で、
宗近君の来訪に対して歓迎の意を表する一点好意の核は、気の毒の輪で尻こそばゆく取り巻かれている。その上には気が咎める輪が気味わるそうに重なっている。一番外には困る輪が黒墨を流したように際限なく未来に
「
「小野さん、さっき浅井が来てね。その事でわざわざやって来た」とすぱりと云う。
小野さんの神経は一度にびりりと動いた。すこし、してから煙草の煙が陰気にむうっと鼻から出る。
「小野さん、
「いえけっして……」と云った時に小野さんはまたぎくりとした。
「僕は
宗近君の意味は通じた。ただ頭のできた由来が分らなかった。しかし問い返すほどの勇気がないから黙っている。
「そんな
小野さんはまだ黙っている。
「僕はいくら
「浅井がどう云いましたか」
「小野さん、
「ええ、分りました」と小野さんはおとなしく答えた。
「分ったら君を対等の人間と見て云うがね。君はなんだか始終不安じゃないか。少しも泰然としていないようだが」
「そうかも――知れないです」と小野さんは
「そう君が平たく云うと、はなはだ御気の毒だが、全く事実だろう」
「ええ」
「
小野さんはこの時始めて積極的に相手を
「あなたは
「小野さん、そこに気がついているのかね」
宗近君の言葉には何だか
「いるです」と答えた。しばらくしてまた、
「いるです」と答えた。下を向く。宗近君は顔を前へ出した。相手は下を向いたまま、
「僕の性質は弱いです」と云った。
「どうして」
「生れつきだから仕方がないです」
これも下を向いたまま云う。
宗近君はなおと顔を寄せる。片膝を立てる。膝の上に
「君は学問も僕より出来る。頭も僕より好い。僕は君を尊敬している。尊敬しているから救いに来た」
「救いに……」と顔を上げた時、宗近君は鼻の先にいた。顔を押しつけるようにして云う。――
「こう云う
小野さんは首を垂れた。
「なければ、一つなって見たまえ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。この機をはずすと、もう駄目だ。生涯
宗近君はにこりと笑った。小野さんは笑わなかった。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々真面目になるからさ。なるからと云うより、なれるからと云った方が適当だろう。真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が
「いえ、分ったです」
「真面目だよ」
「真面目に分ったです」
「そんなら好い」
「ありがたいです」
「そこでと、――あの浅井と云う男は、まるで人間として通用しない男だから、あれの云う事を一々
「ええ構わないです」
「要するに真面目な処置は、どうつければ好いのかね。そこが君のやるところだ。邪魔でなければ相談になろう。奔走しても好い」
「真面目な処置は、出来るだけ早く、小夜子と結婚するのです。小夜子を捨てては済まんです。孤堂先生にも済まんです。僕が悪かったです。断わったのは全く僕が悪かったです。君に対しても済まんです」
「僕に済まん? まあそりゃ好い、
「全く済まんです。――断わらなければ好かったです。断わらなければ――浅井はもう断わってしまったんでしょうね」
「そりゃ君が頼んだ通り断わったそうだ。しかし井上さんは君自身に来て断われと云うそうだ」
「じゃ、行きます。これから、すぐ行って
「だがね、今僕の
「
「うん、浅井の話によると、何でも大変怒ってるそうだ。それから御嬢さんはひどく泣いてると云うからね。僕が君のうちへ来て相談をしているうちに、何か事でも起ると困るから
「どうもいろいろ御親切に」と小野さんは畳に近く頭を下げた。
「なに老人はどうせ遊んでいるんだから、御役にさえ立てば喜んで何でもしてくれる。それで、こうしておいたんだがね、――もし談判が
「やります。こっちから行っても好いです」
「いや、ここへ呼ぶのはまだほかにも用があるからだ。それが済んだら三人で甲野へ行くんだよ。そうして藤尾さんの前で、もう一遍君が明言するんだ」
小野さんは少しく

「何、僕が君の妻君を藤尾さんに紹介してもいい」
「そう云う必要があるでしょうか」
「君は真面目になるんだろう。――僕の前で
「連れて行っても好いですが、あんまり
「面当は僕も
「しかし……」
「君が面目ないと云うのかね。こう云う
「じゃやりましょう。どんな大勢の中でも構わない、やりましょう」
「
「ところで、みんな打ち明けてしまいますが。――実は今日大森へ行く約束があるんです」
「大森へ。誰と」
「その――今の人とです」
「藤尾さんとかね。
「三時に
「三時と――今何時か知らん」
ぱちりと宗近君の
「もう二時だ。君はどうせ行くまい」
「
「藤尾さん一人で大森へ行く事は大丈夫ないね。うちやっておいたら帰ってくるだろう。三時過になれば」
「一分でも
「ちょうど好い。――何だか、降って来たな。雨が降っても行く約束かい」
「ええ」
「この雨は――なかなか
春に似合わぬ強い雨が斜めに降る。空の底は計られぬほど深い。深いなかから、とめどもなく
手紙は
孤堂先生は熱が出て寝た。秘蔵の
宗近老人の声は相変らず大きい。孤堂先生の声は常よりは高い。対話はこの両人の間に進行しつつある。
「実はそう云うしだいで突然参上致したので、御不快のところをはなはだ恐縮であるが、取り急ぐ事と、どうか悪しからず」
「いや、はなはだ失礼の
「どう致して、そのままの方が御話がしやすくて
「まことに御親切にわざわざ御尋ね下すってありがたい」
「なに、昔なら武士は
「二十年目になります」
「二十年目、そりゃあそりゃあ。
「無いと同然で。久しい間、
「なるほど。それじゃ、全く小野
「馬鹿を見ました」
「いやしかし、どうにか、なりましょう。そう御心配なさらずとも」
「心配は致しません。ただ馬鹿を見ただけで、
「しかしせっかくこれまで御丹精になったものを、そう思い切りよく
「御好意は実に
小夜子は
「冷やすのは少し
小夜子は氷嚢を盆へ
「好いな」と云いながら半分ほど
「ごもっともで。ごもっともで……」と宗近老人はとりあえず二遍つづけざまに述べる。孤堂先生の首は
「しかしそれがために小野が藤尾さんとか云う婦人と結婚でもしたら、御子息には御気の毒ですな」と云った。
「いや――そりゃ――御心配には及ばんです。忰は貰わん事にしました。多分――いや貰わんです。貰うと云っても私が不承知です。忰を
「小夜や、宗近さんの
「私は――参らんでも――
「いや、そうなっちゃ困る。私がわざわざ飛んで来た
雨を
第三の車が糸子を
々「うん、まだ書く事があった」
と甲野さんは膝を立てながら、日記を煙のなかから救い出す。紙は茶に変る。ぼうと音がすると煖炉のうちは一面の火になった。
「おや、どうしたの」
戸口に立った母は不審そうに煖炉の中を見詰めている。甲野さんは声に応じて
「寒いから部屋を
「まあ御あたんなさい」
折から風に誘われた雨が四五筋、
「降り出しましたね」
母は返事をせずに
「寒ければ、石炭を
めらめらと燃えた火は、
「もうたくさんです。もう消えました」
云い終った欽吾は、煖炉に背中を向けた。時に
「おやおや、手紙が大変散らばって――みんな
欽吾は
「みんな要りません」
「それじゃ、ちっと片づけよう。
欽吾は答えなかった。母は机の下を
欽吾は腕を右へ
母は机の奥から屑籠を
欽吾は尻眼に母をじろりと
「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から
「額を
「額を?」
「ちょいと御待ち」
「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。
「額を
「持って行くんです」
「どこへ」
「
「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっと
「悪いですか」
「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」
「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」
母は変な顔をして
「出るって、御前本当に出る気なのかい」
「出る気です」
欽吾は
「いつ」
「これから、出るんです」
欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、
「こんな雨の降るのに」
「雨が降っても構わないです」
「せめて藤尾に
「藤尾はいないでしょう」
「だから待っておくれと云うのだあね。
「困らせるつもりじゃありません」
「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母さんが恥を
「世間が……」と云いかけて額を持ちながら、首だけ
「おや」
天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかに
「
「
「兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました」
欽吾は捧げた額を
「受取って下さい」
糸子は
「行きましょう。――車で来たんですか」
「ええ」
「この額が乗りますか」
「乗ります」
「じゃあ」と再び額を受取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。
「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親の
「世間はどうでも構わないです」
「そんな
「小供なら結構です。小供になれれば結構です」
「またそんな。――せっかく、小供から
「考えたから出るんです」
「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、
「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」
「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私を
甲野さんは額を
「少しは分ったかい」と母が聞いた。
甲野さんは依然として黙している。
「これほど云っても、まだ分らないのかね」
甲野さんはやはり口を開かない。
「糸子さん、こう云う
「
「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」
「なぜ」
「だって人の口は
「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより
「世の中への義理ですよ」
「分らないわ、
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんは
汽車のない時の事であった。山の男と海の男が
海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を
ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。
「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。
「うん」と答えたぎりである。
「
「御叔母さん、雨の降るのに
活躍の
「雨の降るのに、まあよく……」
母はこれだけの
「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。
「小野さんは……」と母が云い
「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と
「みんな掛けないか。立ってると
「さあ、どうぞ」と母が云う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」
「父の肖像を
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。
「なに……」と甲野さんは
「なんぞ藤尾に、御用でも
これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
これは宗近の答であった。
あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一
宗近君は
「三時二十分」
何とも
「
降る雨の地に落ちぬ
濃い
「二十五分」
と宗近君が云い切らぬうちに、怒の
「やあ、御帰り」と宗近君が煙草を
「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まん事になりました」
小野さんの句切りは例になく
「約束を守らなければ、説明が
「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
宗近君は二三歩大股に歩いて来た。
「僕が紹介してやろう」と
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
藤尾の表情は
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
小夜子は泣き
「
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――
「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、
藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、
「ホホホホ」
「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は
「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな
「そうだ」
十九
藤尾は北を枕に寝る。薄く掛けた
変らぬものは黒髪である。
敷布の上に時計がある。
ほかには
違棚の高岡塗は沈んだ
すべてが美くしい。美くしいもののなかに
「御線香が切れやしないかしら」と母は
「今上げて来ました」と欽吾が云う。
「
「
線香の
「小野さんは、まだ来ないんですか」と母が云う。
「もう来るでしょう。今呼びにやりました」と欽吾が云う。
部屋はわざと立て切った。
「
「こんな事になろうとは……」
「泣いたって、
「本当に残念な事をしました」と眼を拭う。
「あんまり泣くとかえって
母はわっと泣き出した。過去を
「どうしたら好いか――それを思うと――一さん」
切れ切れの言葉が、涙と
「御叔母さん、失礼ながら、ちっと
「私の不行届から、藤尾はこんな事になる。欽吾には見放される……」
「だからね。そう泣いたってしようがないから……」
「……まことに面目しだいもございません」
「だからこれから少し考え直すさ。ねえ、甲野さん、そうしたら好いだろう」
「みんな
「
甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。あるいは理解出来ないからかと思う。甲野さんは再び口を
「あなたは藤尾に
甲野さんはこれだけでやめる。母は
「そう云われて見ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪いところは直すつもりだから……」
「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも
「うん」と甲野さんは答えたぎりである。
隣室の線香が絶えんとする時、小野さんは
二日して葬式は済んだ。葬式の済んだ夜、甲野さんは日記を書き込んだ。――
「悲劇はついに来た。
悲劇は喜劇より偉大である。これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。取り返しがつかぬ運命の底に
問題は無数にある。
十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に
死を忘るるものは
万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。ここにおいて万人は生に向って進んだ。ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に
道義に
道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。
二ヵ月
「ここでは喜劇ばかり
